つれづれに-11-

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YO-YOMAさんのチェロ組曲を聴いています。
バッハの作曲による組曲で心打たれます。
きしなかさんがリンクされていて、コメントを交わしたところです。
もう、お昼前になってきて、このあとの時間、どうしようかと思っています。
ここでは自分史を構成させているところで、読んだ本と自分の過去をリンク。
自分史の区切り区切り、短文で刹那をつないで、自分を懐かしむ、ですね。
音楽は、中学生になってブラスバンドに入ったのが契機になります。
でも、音感というか、けっこう性に合っていたというか、感じたんでしょうね。
当時のポップも聴きましたが、クラシックに傾斜していったのも事実です。
音楽家になりたいと思った十代の後半、でも無理だとわかって文学へ傾斜です。
なんか、芸術系のことばっかり興味で、社会人としての金儲けは、考えられません。
けっきょく、好きなことばっかりやてきた人生やなぁ、と音楽聞きながら思っている。
posted by shigeo at 11:33

つれづれに-10-

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ここのブログで書いた記事をフェースブックに載せようと思うと、ちょっと手間がかかる。
この記事のアドレスをコピーして、フェースブックの投稿にコピーする。
そうするとこの記事がフェースブックに連動される、ということになっています。
記事を書いてフェースブックにシェアできる機能がついたブログもあります。
連動させても写真が転載できないブログもあります。
掲載の写真は、展示されていた鎧と兜を撮らせてもらったものです。
そんなこんなでブログを整理したところですが、このブログは残しました。
ビックローブが運営していて、ネットをこの会社の回線でつないでいることもあります。
最近、フォーマットが変わって、記事アップしやすくなったこともあります。
それから、本音らしいところで、文を書こうと思うブログでもあります。
今日は、このあとビジュアルアーツへ赴いて、二時間、自分の話をいたします。
ここのブログにあった自分史のテーマで、新たに書こうかとも思うところです。
posted by shigeo at 11:14

つれづれに-9-

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今週の土曜日、2019年9月7日ですが、写真の話をします。
ビジュアルアーツ専門学校が会場です。
1980年代の京都の写真状況について、ぼくの記憶を語ります。
まあ、総まとめの二時間にしようと思いますが、ぶっつけ本番です。
パソコンの中でアルバムを開いたら、この写真がみつかりました。
釜ヶ崎の三角公園で開催した写真展です。
パネルにしているから、第二次の巡回展のひとつです。
この展示のことは、忘れていました。
1980年代の初めのころは、季刊釜ヶ崎の編集発行があります。
巡回写真展を企画して、大学や教会やギャラリーで展示活動をしました。
そんな話も含め、今週末、大阪にて、話をする予定です。
posted by shigeo at 09:08

つれづれに-8-

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今年の反省をしとかなくちゃいけないな。 最悪だと思える一年だったと、朝から思っています。 一月の初めから、壊れていくことでしかなくて、一年が終わります。 こんな年、古希を迎えたという、身体的なこともあるのだろうけれど。 心的に、つらいことが続いたと思えます。 高揚していくときには阻まれ、袋小路に追い込まれ、フリーとなった。 ちょっとパソコンでやってる作業も、整理していかなくちゃいけないな。 学校の広報用にとっておいたブログも、もういらないな。 整理しようとして、整理できなかったけれど、踏ん切りですね。 新しい環境を自分で作っていかなければならないから。 フォトハウスの見直し、カフェ&プレスの構想、これまでの総決算。 思いはあるけど、からだと、気力が、ついてこないですね。 年末になって、どうしたらいいのか、わからないことばかり。 過去をどこまで捨てて、これからのことに繋げるのか。 繋がらないかもしれないし、繋げることもないのかもしれないし。 これまでやってきたことを整理していきたいと思ってきたけど。 それらのことも必要ないのかもしれないな。 古事記を最後まで読んだ、とはいっても超簡単ダイジェストですけど。

つれづれに-7-

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文字清さんと飛鳥へ連れて行ってもらっています。 このまえ11月29日には天の香久山へ上ってきました。 それから藤原宮の発掘中のところ、そのあとは今井町へ。 古事記の世界ですが、ここまで来たかという感じですね。 命あるあいだに、神話の世界に触れだしてよかったと思う。 なにより、文字さんと、こうして同行できるのが、うれしいですよ。 あれらから一年が過ぎて、あれらが過去のこととなっていきます。 写真図書館から手を引き、新しい勉強がはじまったという感じです。 最後の、未知への挑戦ということになると思うところ、古代史です。 未練を持ってちゃいけない、棄てきらなければ、次がないです。 辛さも、もう過ぎ去っていくじゃないですか、もういいじゃないですか。 東松さんとのことを書いておかなくちゃ、フォトハウスの創世記。 稲垣さんがん治療、こんなことになるなんて、本人もいうとおりです。 闘志がある人だから、尊敬します、なんというか強い人です、尊敬します。 70歳を越えて、釜ヶ崎の運動一徹、素晴らしいと感動します。 当分はレンタイフェスタと裁判傍聴、ぼくにはこれしかできない。 梅澤さん、昔のことは、もう話さないで、このまま終えるのがいいですね。 なんかしら、人間模様、古事記の時代から現代まで、よく似たものですね。

つれづれに-6-

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第九がパソコンのスピーカーから流れ出てきています。 聴き慣れた旋律、ベートーベンの最大の交響曲、12月に聴く。 音楽については、素人の部類だけど、ずっと聴いています。 とくにベートーベンというのは、相性がいいのか、よく聴きます。 なんだかんだといいながら、結局、ベートーベンに戻って来る。 偉大な作曲家だと、つくづく思います。 ベートーベンは、音の構成組み立てにおいて、天才だと思います。 ある部分にだけ突出した才能を発揮する人間でこれが天才です。 そうおもうと、ぼくなんて、くらべようもなく、おこがましいことです。 いろいろと興味を持って、やってきたことだけど、結局、モノにならない。 音楽という楽器演奏、文学という小説書き、写真という撮り手、というところ。 ここまできて、モノになっていなくて、こんな人たくさんいるんだろうな。 古希を迎えて、何をどのようにしていこうかと、迷うところです。 もう一度、何か作り上げられないか、との挑戦です。 でも、気持ちが高揚したり萎えたり、今日は萎えているところです。 もっとゆっくり、思うところを、書いていけばいいのではないか。 ここに、こうして、あれやこれやと言っていること、つまらないこと。 こころを落ち着けて、社会における自分の立場を、反省してみるといい。

つれづれに-5-

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アメリカの大統領にトランプ氏が選ばれたというニュース。 時代が変わる、たぶん、世界の枠組みが少し変わるんじゃないか。 べつにトランプ氏でなくても、世界構造なんて少しずつ変化していく。 そういうものだけど、保守が大半だから、極度の変化を嫌います。 国際政治の世界だけじゃなくて、日常の在り方も変わる。 自分が変わらないと思っても、生活のシステムが変わっていきます。 グローバル化する世界は、富の集中と貧富の差が大きくなる。 世界経済は、この方向にむかって加速していると思っています。 そういうことでいえばトランプ氏は、富を集中させてきた人かもしれない。 それらは大きな世界の問題で、小さな世界、自分の世界の問題は。 これですね、自分のまわりの問題、それが大きな問題をはらんでいる。 写真であれ文章であれ、表現の問題をとらえようとしています。 新しい学びの場を作るべく、枠組みを考えています。 総合文化研究、むくむく通信、学校、それらは2004年だから12年前。 フォトハウスは1984年だから34年前になるのか、と思う。 結局は自分が携わったことのアレンジだから、大体の枠組みはできる。 新しい技術環境、それにともなったスキル、なによりも表現する中身。 何よりも今を具現するカリキュラムでないといけないわけです。 写真は松尾大社前 2016.11.4

つれづれに-4-

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時代が変わるということが実感できます。 別のブログ、イオブログが来年3月で終了となるとの告知。 表面世界は、ずんずんと変わっていきます。 iPhoneからアンドロイドに乗り換えたが、そこはグーグルです。 グーグルの勢力が拡大してきて、ネットではここにお世話になる。 そういえばコンビニだって、セブン、ローソン、それにファミマですか。 使い勝手のよいカードが、セブンカードだと思えます。 セブンの店とガソリンを入れているが、重宝しています。 カードの時代になって、クレジットカードは使いたくない。 プリペイドカードというのでしょうか、先払いカードです。 電車はイコカカードを使って、ICカードですね、便利。 ひところでは考えられなかったような生活様式の変化です。 表層は、どんどんと変わっていって、生活の様式が変化します。 心のなかはどうなんだろう、やっぱり、変化していくんでしょうね。 カメラを持って、神社仏閣を訪問して、足跡を残していこうと思う。 おおよそ千年から千五百年前、後昔に設営された神社仏閣。 そこに我ら日本人の精神のルーツがあるのではないか、。 その精神性というものを感じられないか、と思ってみるところです。 写真は、蚕ノ社で撮影のもの、2016.10.29

つれづれに-3-

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2016.10.14、文字さんとキトラ古墳へ行き、そこから壺阪寺へ行き、写真はそこで撮ったもの。 この先、どうしたらいいのかと想いあぐねていたところでしたが、希望の星が見えてきた。 ギャラリー176の運営主体となっている友長氏と、昨日9/22、話をすることができました。 彼はIMIで学ばれたメンバーで、そのクオリティーをイメージ的につかめる人だと思えます。 結局、かってIMIお初期で学ばれたメンバーが、ゆるやかに群として見えてきたところです。 新しい塾をつくれないか、そのための枠組みを提示させてもらって、若い世代にやってほしい。 友長氏は東松さんが長崎移住のころに知り合って、子供さんの名前をつけてもらった、と。 東松照明さん、京都取材に入られた1981年末、ぼくは1982年正月、京都で会ってもらった。 それからの三年間、フォトハウスの企画がつくれるまでのレベルで、会話、誘発してもらえた。 そういう経験が、ぼくにあるんですが、その流れの延長線上に、これからの枠組みができる。 なにかしら、救われたような気持ちになってきたぼく自身、なにか始まっていく予兆です。 写真ワークショップ豊中、写真学校豊中、学びの器をつくる、これが当面の作業でしょうか。 ベーシックなところで、現代アートの心のなか、というか、その深層部分を明るみに出す。 表現として、画像によるイメージが優先されるが、いっぽうで文字によるイメージも必要。 画像イメージだけでインパクトを産む表現と、文イメージを底辺にした表現と、ふたつです。 文章作業を行なうときの文章の形ですが、これは文体の問題になのでしょう。 イメージがひろげられる文体、論理的ではなくても、詩文であり散文であり、そういうもの。 写真学校と文学校が、その背景というか、奥行きは自然学校、農学校、総合文化の枠組みだね。

つれづれに-2-

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2016年10月13日、これが本日の日付、この先、どうしようかと。 昨日、iPhoneをやめて、別のにしました、あんまり変わらないな。 これで写真を撮るのをやめようと思うが、インスタグラムを使った。 写真集で風景論を発行していたが、中断することにした。 8号まで発行したけれど、止めろと言われて、止めようと思う。 この先、どうすればいいのか、本当に迷っています。 Xperiaという機種で、グーグルがやっている。 この一年、iPhoneを使ってきたが、一区切りということでよい。 解約して、電話番号などが変わってもいいと思っていたけど。 そうはならなくて、金額的には高く付いたけれど、変れるかな。 思い出が一杯詰まったiPhone、それを忘れてしまわなければ。 そう思って、新しいのに切り替えたというのが、本当です。 10月10日、動画を撮ったことで、ひと事件になったことを反省して。 いままで作ってきた自分の世界に対してのクレームといってよい。 彼女が反対している、これがなによりこたえています。 生活をともにする一番近い関係にあるひとだから、これが最優先だと思う。 それ以外は考えてはいけない、まず、いまの生活を維持していくことだ。 そこから、できることをやっていくしかないのだと判断します。 昨日今日、これまでのこと、いったんリセット、ここから始めないといけない。

つれづれに-1-

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新しいシリーズでタイトルは「つれづれに」です。 写真は最新のモノを使おうと思ってます。 文章は、そのつど、思うことを書き記していこうと思います。 かなり本音で、そのとき直面している気持ちを記していきたい。 というのも、内面の記録として残しておきたいとおもうからです。 もうええかっこなんてしていても空しいばかりでしやないです。 そうおもっていても、本心が言える、書けるということでもありませんが。 記憶がもうろくする年頃で、さきに写真を選んだけれど、どんな写真だったか。 iPhoneで撮った9月25日の写真ですが、思い出せない、困ったことだ。 なにせ、しょせん、こんなことだから、じぶんながらに、なさけない。 まだ、認知症とはいえないのかもしれないが、それに近づいている。 メディア図書館の関連を辞めた、理由はさまざまいえるけど、本心は。 じぶんの思い込みにしかすぎないが、あなたがいない処にはいられない。 一緒にいた処は思い出ばかり、そこから出発するためにも、辞職をえらんだ。 いくつものひととの関係を断ち切ってしまうけど、新たな関係も生まれる。 これまでに、身を切る思いで、関係を絶った日があります、思い出します。 辛い、淋しい、空しい気持ち、たいていこんな気持ちが底辺にある。 前向いて、前途を祝う、希望に満ちた、なんてことはなかった。 いつも負け犬みたいな感覚になっていたのが自分だったと思う。 さて、この先、どうしようかと、思う気持ちが先立っています。 あたらしく、ひととの関係がつくれるのだろうか、おもっています。 載せた写真は新しい祠に安置された鞍馬口地蔵尊でした。

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ここでは本音でこころの内を書き記しておくのがいいのかも知れない。 先週から今週にかけて、身の振り方が大きく変わってきたと思ってる。 図書館、表現大学からの、身の引き方、ということです。 そこでの講師として認められないのは辛い気持ちがまずある。 自分では自負があり、写真表現についての新しい見解もある。 それに基づいて、それを実現しようとして、写真を撮っているところ。 それはそれとしても、主宰者とこれ以上続けるのは、気持ちが乗らない。 もう、いいのではないか、と思う気持ちと、未練とが交錯します。 表大写真講座への関わりは、この9月で終わります。 写真を教える現場には立ち会わない、ということになった。 これは自分にとっての最大の否定なので、あとは引くのみ。 図書館運営、経理運営仕事、それらは、もう、引退したいところ。 講座運営にかかわることを、続けていく最大の興味だったわけだ。 それが成り上がってきて終わっていくのだから、全体を終える。 自分の新たな展開ができるとは、思うけどできないかも知れない。 写真に関する講座、京都写真学校を続ける気はないけれど。 それから自分が主体となって創りあげるということもないと思うが。 節目、だとうと思う、もう終わっているその子との終わりかたも、ある。 こうして決断しておくことで、いつでも気持ちが対応できると思う。 今年残りは、夜間の立ち会い、図書館の立ち会い、それだけだ。 それでよい、これでよい、そう思うと、気が晴れる、ということです。

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季節は春、今朝は雲一つない青空、少し寒いです。 灯油ストーブ、めんどいからやめようと思ってたけど、使っています。 音楽はベートーベン、交響曲、フルトベングラー指揮の第三番、英雄、エロイカ。 1953年に録音されたと記されているから60数年前ですか。 iTunes、アイチュンって言えばいいのか、パソコンで聴くプレーヤーで聴いています。 音楽はやっぱりベートーベン、ぼくは中学生のときの運命からはじまり、今に至ります。 そうゆうことでいえば文学は夏目漱石、文学の中でも小説のジャンルです。 漱石のことでいえば、明治末期に朝日新聞に連載された小説です。 内容は、男と女、三角関係、男が二人に女が一人の三角です。 でも、これって、近代的自我っていわれてる具体的な内容なんですね。 近代的自我かぁ、なんて内容わからず、うんうん頷いているところです。 なんのなんの、最近、浮世絵・春画の展覧会が盛況だったとか。 浮世絵は近世に区分される主に江戸時代、江戸で制作されていた絵画系。 文学ならば芭蕉もいいけど、やっぱり西鶴でしょう。 男と女の間には、セックスという領域がはさまります。 そうか、春画はあからさまですね、セックスの場面がそのまま、誇張描写です。 文学は、あからさま、ところが近・現代文学は、それを隠してきていますね。 あからさまにセックスを描く文章は、地下というか裏というか、そういうイメージです。 そりゃ絵画だって、近・現代絵画となると地下というか裏、ですね。 絵画は、堂本印象、ぼくの近場におられたイメージ、住まいがご近所だから、です。 岸田劉生の麗子像って油絵ですね、これ、昨年にぼくがぼくのなかで発見した「美」。 ぼくのことなんぞ、だれも知っちゃいないから、自己アピールしかないわけですが。 東松照明さんは、ぼくの不思議に触れてこられたこと、ここで明かします。 京都で生まれ育ったからには京都の精神というイメージをもったぼくなのです。 そのぼくが大阪西成の釜ヶ崎に入り浸って写真を撮っている、そのアンバランス。 東松さんはこのアンバランスに言及されてきたことがありました。 ぼくは、つながっていると明確に判断していますが、このつながりは別途書きます。 音楽、文学、絵画と三つの芸術ジャンルを横断して書いていますが、つれづれに。

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春の暖かさにともなって、心が浮いてくる感じがします。このまえ書いた文章がちょっと気に入ってなくて、四苦八苦なんて、あんまり考えないほうがいいな、と思っているところです。話は全くかわって、いま、パソコンにキーボードで入力しているんですけど、立ち上がりが遅い。微妙にサクサク感がない。そんなことで、気がそぐれてしまいます。ウインドウズ10、新しいバージョンです。それが、これまでよりも使いずらい感じなんです。これは、相性というものかもしれません。なんとなく、相性が悪い、のかもしれません。 この前に記事を書いてから、右眼の白いところが真っ赤になって、翌日、眼科に行ってみてもらうと、出血だと言われた。原因がわからなかったのですが、血圧を測ってみて、と言われて朝昼夜と測ってみると、とんでもなく高い数値が示されたのです。最高183だったか、170以上です。そのときは下痢もしていて、食あたりか、とも思ってたけど、三日たっても収まらない。血圧といい、下痢といい、こんなことは初めてでした。ストレス、思いつめ、それらが重なって、そういう状態になったのかも知れない。自分で思うストレスの内容は、ほかの人には伝わっていない。 昨日、かかわっている講座の修了式がありました。中途半端なかかわりだったから、中途半端なまま、いまもって中途半端なままな気持ちです。どうしようかと思い悩むところです。気持ちは引いていて、もう参加しない、と思っているところ、そうしてしまうには未練が残る、といった感じです。ストレスの原因がここにあるとすれば、それを除去するためには、やめるということにほかならない。いつの時も、なかなか決断がつかない自分があったと思います。ここへ来て、まだそんなことの繰り返しをしている。今年いやもう来月、満70歳、なんて自分でも信じられない事態がきています。血圧のことでいえば、毎日、薬を服用することにしました。 命のこと、自分の命のことですが、まだ10年はこんな作業を続けながら、やっていけるだろうと思っています。でも、これは、どうなるかわからない。それ以上続けられるかもしれないし、それより短いかもしれない。いまの歳になったから、このことを考える、思う、意識するんです。これまで何してきたんやろ、なにかしら忙しくしてきたけれど、けっこう独りよがりで、様になっていなくて、ダサいなぁ、と思っているところです。けっこうわけのわからない、つまり触れてはいけないものに触れてしまって、そのこを誰にも言えなくて、どうしようもなくなってしまう。何回繰り返せば終わるのか、いや、む、終わった、次はない。

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生きるってことが四苦八苦というじゃありませんか。そのうちの四苦というのは生老病死というじゃありませんか。それに追加の四苦があって八苦となる、と辞典に書かれているんですね。ウイキペディアによると<四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦の分類。 苦とは、「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味する。根本的な苦を生・老・病・死の四苦とし、 根本的な四つの思うがままにならないことに加え、愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離すること、怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会うこと、求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られないこと、五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと、の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦と呼ぶ。>と解説されているんですね。 老いて病て死ぬ、なんてことは人間の肉体のことだから、しやないなぁ、なんてあきらめの境地へ至るように気持ちをそちらのほうへと導くように努めている、なんていえばかっこいいけど、これはやっぱり、思うことが苦なんですね。そのように思えます。そのあとの四つ、愛する者と別離すること、つぎは飛ばして求める物が得られないこと、肉体と精神が思うがままにならないこと、うんうん、四苦八苦とは、こういうことか、なんてことを引用してこうして羅列することで、精神の安定を図っているふしがあるのに気づきます。とくに、愛する者との別離、なんてことが起こったら、どう対処しようかと思ってしまって、気持ちが動転してきます。求不得苦、これですね、最近の苦しみは、たぶんこれです。 苦しみといえるのかどうかはここで苦しみだと認定されたわけだけれど、求める物が得られないことを苦とするには、この得たいものの質というかレベルというか、このことを自分なりに吟味しないといけないですね。ぼくの場合、得たいものとは<愛>、なんてかっこいい言葉が導きだされます。どうしてなのかと問われても、愛というイメージに包まれると精神が安定するだろうと想像できるからでしょうか。それで愛というイメージの対象物に、愛する者、という個別の物が明らかになってきます。愛する者、家族、妻と夫、その関係、ということでしょうか。今日はどうかしてるなぁ、といま、思っています。少し気負っていて、読ませる文章にしなくちゃ、と思う気持ちで、わけわからへんことを書きつつある感覚です。 言葉じゃないんだよな、感じることなんやろな、でも、それを、表現するには、言葉しかないじゃないか。いやはや写真という静止画イメージで表現、ってこともあるかなぁ。いずれにしても内面の表面をしか描写しないじゃないのかなぁ。四苦八苦の四文字からはじまって、わけのわからないところで言葉を紡ぎだしてるようです。肝心なのは情、なさけ、じゃないかなぁ。人が人に、情けを、与えて、頂く、という相互の関係が体感できるとき、それは苦を超える、ということになるんじゃないか。ここでこうして書いていると、そんなふうに思えてきます。いま、ぼくが立っているところは苦の領域なのかもしれない。別れ、別離、このことへの嘆き、苦しみ、そういうことかもしれない。ただし、これは時間の経過によって和らいでいく感情でもある、と知っています。

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モーツアルトってひとは、素晴らしい感性を持っていたんですね。いま、パソコンのなかで処理されたデジタルデーターが、スピーカーから流れ出てきていて、ぼくはうっとり、聴き惚れながら、思い立ってこのブログの、この画面をひろげて、ぼくの心情を書きあらわそうとしているところです。伝わらないな、ぼくの気持ち。言葉で、文字で書き起こしても、心情、気持ちってゆうのは伝わらない、異質のもののように思えています。ぼくは、この心情、気持ちを伝えるためには、どうすればいいんだろうか、と考えてしまうんです。いいえ、考えることじたいが、いけないんだよ、考えることではなくて、感じることではないか。 純粋理性批判なんて書物を書きあらわしたひとがカントという哲学者さん。理性のなかに間違いが生じる原因がある、と解釈すればいいのでしょうか。柄谷行人さんの倫理21という本を拾い読みしながら、なんとかぼく自身の理性を支えようとしている感じです。壊れていくような感覚、けっこう動物的な感覚なのかもしれない、無性に慟哭したくなる感覚。いまさらながら、倫理とか道徳とか、社会とか国家とか国民とか、そういった言葉を見て、読んで、つなぎ合わせて、頭の中でイメージの形にしていくことで、気分の安定を得ようとしている。と同時に、ひとつひとつと言語や認識の皮をめくっていって、文化とか歴史とか、そういった認識から抜け出て、感性だけになっていくことを試みたい。 身の回り、いまパソコンたる道具のまえに座っていて、目の前の棚には書物があってそれらは日本語で書かれてあって、すべてぼくの認識は、そういうことを認知することで成り立っているような気がします。目の前、壁面に取り付けてある三段の書棚の最上段、その左から世界の大思想(河出書房版)が捨てられないまま、いまだに並んでいて、そのなかのカント二冊を取り出してみました。純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判、カントってひとは批判ばっかりしているんですね。それと、永遠の平和のために、なんてタイトルがあります。これらは背表紙に刻印されていて、ぼくはその背表紙を見て書いています。箱に入った書籍そのものは取り出していません。なんだかカントなんて名前をだすと、ぼく自身が偉い人のように見えるんじゃないか。錯覚しないでほしい。 でも、たしかに、自尊心みたいなのがあって、見せかけだけなのに勉強したようなふりをして、張りぼての自分像をつくろうとしています。ほんとうは、その外にいて、そういった理論を捨て去って、ただただ動物的に、ありたいと思っていながら、そういうことを言っている文化を身にまとった人間なのです。自分なんて、国家や宗教や芸術や、もろもろの風土を身にまとったことを自覚して、人間はどうあるべきか、なんて議論に参加しようとしている。そのことじたい、捨て去ってしまうなんてできなくて、いやはや、捨て去ろうとすると寂寞感にさいなまれ、奈落の底に突き落とされてしまう感覚になるから、そこへは行けないな、と思いながら、死ぬときはその気分なのかもしれない、と思ったりして、ああ、逃れたい、逃れたい、反倫理、恥ずかしい自分を発見してしまう。