日々にっき200709

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清凉寺の阿弥陀堂には仏像が安置されています。
阿弥陀堂の畳のところに座って、正面を見ると写真の光景です。
源の融という人物が住んだ場所という説明があって、光源氏のモデルです。
とおい昔のイメージを想いながら、座っていると、こころが安らぐ気がします。
この光景は昨日7月8日の午後に訪れたときに撮らせてもらった一枚です。

清凉寺の西側に精神科の病院があって、その前を通って、化野のほうへ行きます。
中学の頃に飯盒炊爨といえば、この道をとおって、清滝まで行軍したものです。
病院は友だちがその息子ということで、当時から親しみを持っている精神科病院です。
高校生の頃、診察してもらおうかと、ひとり、真剣に思ったものでした。
引きこもりとか不登校とか、そういうことになっていた自分を思い出します。

高校の国語の教師だった池垣先生は、へんな先生でしたが、同志社の神学部を勧めました。
悩んでいたことを知った先生が、神にすがったらいいのでは、との意味だったのか。
そのころ、池垣先生の家へはよく行っていて、友だちと一緒になんども泊まりました。
いろいろと思い出している最近ですが、もう半世紀以上も以前の出来事です。
まだ、この先、どれだけの時間があるのか、未定だけれど、自分史を手掛けています。


日々にっき200706

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最近、飛鳥寺へ行きまして、飛鳥大仏さんを撮らせていただきました。
日本最古の仏像だというので興味津々なのですが、写真を撮ってもかまわない。
撮ったらダメ、という大半の仏閣にして、撮影可というのは、とっても嬉しい。
一般に、神秘を壊すから撮るな、ではなくて、禁止の理由がわからんわけです。
まあ、そんなこと言っていても始まらないから、撮れるとこだけ撮らせてもらう。

飛鳥寺は、飛鳥の都があった処で、蘇我入鹿の首塚が飛鳥寺の横にありました。
飛鳥宮跡へも行きましたし飛鳥資料館へも行きました。
昨日、本屋さんへいって新書の棚をみていたら「飛鳥の都」があって買いました。
日本のルーツとして、箸墓古墳あたりから平城京あたりまで、痕跡を辿っています。
ひとりではなく、MONNJIさんに連れていってもらって、学ばせてもらっています。

MONNJIさんといえば、中学高校と吹奏楽の後輩で、現職で音楽が職業です。
ここ四年ほどになりますが、古代史に詳しい彼と一緒に、古代史巡りをしています。
ぼくはカメラをもって、写真を撮っているんですが、まだまとめていません。
部分部分、ネットに載せて、発信しているところですが、作品にはなっていません。
不惑を昔に過ぎているのに、まだまだ人生に、惑い迷いばかりな高齢者です。

自分史(2)-7-

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吹奏楽との出会いを書いておこうと思います。中学の入学式の日、1959年ですが、吹奏楽部の演奏があり、魅されてしまいました。小学生のときから学芸会とかでは、器楽合奏のほぼ主役をさせてもらっていたから、音楽の才能があったんだと思います。吹奏楽演奏に魅され、音楽の最初の授業の時に、吹奏楽部の募集があり、手をあげました。詳細は記憶にありませんが、クラリネットをあてがわれます。先輩に梅田さん、菅さん、同年生では女子が二人だったか三人だったか、パート練習は女子たちとするようになります。いまや吹奏楽部といえば女子が大半の音楽クラブですが、その当時は、男子は金管楽器、女子は木管楽器、というふうに分かれていました。三年間を吹奏楽に明け暮れた感じで、三年になって、パレードの指揮をするようになります。単独だけではなく、市北部中学校合同の市中パレードの先頭で、指揮棒を振って、ホイッスルで合図、そんな役割でした。

中学から高校へ、山城高校へいく予定が嵯峨野高校で、そこは以前女学校だったというのでお茶室はありましたが、吹奏楽部はなく、野球部も強くはなく、田舎の学校のように思えたのですが、一年のときのクラブ活動では、新聞部にはいり、JRCにも所属しましたが、吹奏楽部をつくる機運が起こってきて、創部の中心になっていったのです。大学への進学校でしたからまわりは受験勉強ムードでいっぱいのなか、吹奏楽部をつくり、若かった宇野先生を顧問にして、部活動をはじめたのです。創部早々、さっそく夏の野球部、予選で西京極球場での応援演奏をおこないました。球場にむけて見下ろすのではなくて、球場を背にして見上げる光景は、指揮者の醍醐味というところでしょうか。女子の足元深くが目にはいります。どぎまぎしながら指揮したのを思い出します。そうして秋の文化祭を迎えるにあたって、中学からの応援を含めた混成部隊で演奏をやりました。ファンファーレは、東京オリンピックの楽譜が手に入っていたので、それをやりました。

高校二年生の春から秋まで、吹奏楽部を作りこんでいくのに必死だった記憶がよみがえります。なにもないところから作り上げることをする、最初のプロジェクトでした。人生において、何度か未定のモノを形にしていくプロジェクトを組んでいくことになりますが、これが最初です。この吹奏楽部は、その後、現在まで続いていて、OB会がつくられていて、ぼくは創部者ということで、つまり後のメンバーは後輩となるところで大事にしてもらっていて、感謝です。数年前に創部50周年の記念演奏会が開催され、オープニング、校歌演奏の指揮をとらせていただき、50年ぶりに指揮台に立ちました。すごい迫力、指揮台のところに集まる音は、ステージではなくて正面からの音だから、独特の迫力でした。

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自分史(2)-6-

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文化祭にはクラス単位の合唱コンクールがあるのですが、ぼくは指揮者をつとめて、三年間、毎回続けて優勝しました。記念写真がありますが、指揮者だからでしょうか、最前列に腰を落して座っているのです。今、見てみると、晴れがましいです。クラスの連中引き連れて練習したかいがあって、優勝の栄誉に輝いた、というわけです。たまたま優勝したわけで、ぼく自身、それほど感動した記憶はなくて、あっ、そう、程度だったように思います。吹奏楽のステージ、軽音楽のステージ、クラス対抗の合唱コンクール、音楽の場面はぼくが取り仕切ったということになりました。

大学進学から就職に変更したのは、三年生の秋の終わりごろだったと思います。京大なんてムリムリムリ、受験勉強なんてしてないんだから、受かるわけないわなぁ、と思っていて、決断して就職することにして、進路部の部屋へ行って、先生に就職する、と話しました。ほぼ即決、十字屋楽器店が人ほしがっている、ピアノの調律師の仕事がある、受けてみるか、という話しで、三条新京極の本店へ面接に行きました。技術部の部長さんは森さん、年配の方でした。電気できるか、と問われたので、ラジオとか作った経験があると話して、それならエレクトーンのことやってみないか、といわれて、ピアノ調律ではなくてエレクトーン技術をやることになったのです。

卒業を迎えていた日々、出席日数が足らないから、補講するので朝から来なさいといわれて、補講をうけて、卒業できることになりました。生徒指導の金加先生がぽつり、入試の成績はトップクラスだったのに、どうしたんかなぁ、みたいなことを言われたのを覚えています。卒業式の日は、もう、卒倒しそうなほど、むなしさの気持ち、ばかりだった記憶があります。学校近くのパンを売ってる店は行きつけの店で、最後のパンを買った記憶がよみがえります。別れは辛い、大半は大学進学なので希望に満ちていたと思うのでしたが、ぼくは、就職してしまった、との思いなのでした。

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自分史(2)-5-

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ガリ版刷りのための原紙つくりにヤスリと鉄筆を使うんですが、正式には孔版というのでしょうか、ぼくが小学生の頃、母親がこの技術を習いにいっていて、ぼくが高校性のころには、もう道具一式を使っていなくて、ぼくが使うことになりました。小説で足摺岬というのがありますが、そのなかでガリ切りする光景が出てきます。なにか暗いイメージの記憶がありますが、文学すること自体が暗いイメージを伴っています。もちろんぼくのイメージにすぎなくて、ですが、自分の暗闇に光をあてて表に出してあげる、これが文学行為の根底かとも思っていたのです。行為としてのガリ切りは、奈落に堕ちそうな気持を下支えしてくれる作業としてあったように思えます。文章を書く、写真を作る、これらの行為としての作業は、下降するこころを底から支えてくれる器なのだと思えます。

原紙にはマス目が入っていて3㎜だったか5㎜だったか、そのマス目に文字を角ばらせて書くと見栄え良い、ということを教わって、そのことができるように練習しました。詩集を作ることが目的で、詩そのものを書きださないといけません。これはメモのような感じでノートに書いた記憶があります。当時はノートにびっしり日記を書いていたその延長に詩があった気がします。なに紙っていうのか、千本の文具店へいって紙の見本から種類と色を選んで、裁断してくれるというので、裁断してもらって、その紙を謄写版においてローラーで刷り込んでいくのでした。印刷は生徒会室にあったから、そこを使わせて(黙って)もらいます。冬の夕方、きもちは虚しい、泣きそうな心で、ローラーで刷った記憶がよみがえります。17歳の出来事です。

出来上がった詩集は、一部五円でクラスの女生徒に売りつけていました。女生徒はキャッキャいって手にして、読んでくれて、面はゆい気持ちになりましたが、なにかしらの快感でした。たわいない告白の交じった短文ですが、文章が書けることを意識したことはありませんでしたが、当時は、小説を読むというより詩を読むことのほうが多かったです。アポリネール、リルケ、バレリーとか、朔太郎、光太郎、藤村とか、そのうち堀辰雄にいきついて「風立ちぬ」のフアンとなり、全集を手に入れるようになります。全集といえば太宰治全集が筑摩書房から出ますが、もうそのときは大学受験の浪人時代だったかなぁ、と記憶をたぐっています。音楽と文学のはざまを振り子のようにゆらゆら揺らせていた気がします。

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自分史(2)-4-

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自分を取り巻く外観は、年月とともに変化してきますが、内面の気持ちってゆうのはグルグルぐるぐる、同じところをかざぐるまみたいにまわっているような気がしています。言葉をもっているから、言葉を紡いで書き残しますが、子供のころからの気分が、いまもって同じような質であるように思えるのです。ただ年齢すぎ、経験が豊富になって、処理のしかたがわかってきて、理知の領域で自分をなだめようとして、表向き冷静であるようにふるまうのだとも思えます。小学生の高学年あたりから自我が目覚めてきて、思春期になるのか、気持ちを表現できるようになる。哀しいとか淋しいとか嬉しいとか、無意識ではなくて、自覚的にそう思えるようになる、ぼくの場合はそうでした。

気持ちが、奈落の底に落ちていくような気分になるときがあります。氷の割れ目、クレバスに落ち込んでしまうような気分、龍之介のクモの糸にしがみついているのに、プッツリと切れてしまって、転落していく気分、なんとも支えられる底がない、底なし沼に沈んでいくような、そんなまったりじゃなくて、キリキリに研ぎ澄まされた感覚なわけです。高校のころになると精神病院、いまなら心療内科とかいうんでしょうか、とっても意識しだして、診察受けたらぼくは即入院なんて言われるんじゃないか、とまじめに思っていた気がします。かなり年を取ってから境界例という症例があると知りましたが、それに近い感覚を持ち続けているわけです。

あるとき、その感覚がよみがえるんです。躁と鬱の波が、波形が、時とともに流れていて、そのつど波形の波間に漂っているんです。なにかの拍子に鬱のクレバスが開くんです。正常と異常、ノーマルとアブノーマル、その境界線があるとすれば、この境界線の異常のほうにはまってしまうイメージです。恋して振られた、人格を否定された、困難に立ち向かえなくなった、そういうとき、心の弱さといえるそのところへ、落ち込んでしまうんですね。精神異常っていうけれど、その境目を越えてしまって表向きそれとわかる場合と、それがわからない場合とがある。自己治癒されるから、ふたたび年月とともに正常世界に戻っている。そんなことの繰り返しのような気がします。

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自分史(2)-3-

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文化祭のステージでブラスバンド演奏をしたメンバーの記念写真があります。1963年10月とあって、先に触れた吹奏楽部創立からの初めての文化祭。軍艦マーチを演奏して、顧問の先生と激論した記憶がありますが、当時のぼくには勇ましい軍艦マーチの意味合いがわかっておりませんでした。文化祭ステージでのメンバーの半分は中学生の応援でした。合同ステージを組んだのは部長ぼくの判断で、カッコよさを求めたのと翌年に入学してくる中学生を巻き込んでおきたかったとの記憶があります。指揮者をしておりました。楽譜は読めました。指揮者が楽譜に基づいて音楽を創っていくという作業に立ち会わせてもらえました。でも、この日の直後、吹奏楽部から離れ、受験勉強に入るという立場になりました。

文芸部の人たちと知り合うのはこのときです。好きな人の話は一切できなくて、しなくて、心に秘めたまま、誰に告げることもなく、心に秘めたまま、文芸部の人たちと交流します。さすが文芸部、一年後輩になる女生徒が数人いて、その屈託ない明るさに引き込まれていきます。気にかかる女生徒もいて、お屋敷へみんなで遊びにいったり、スケートにいって抱いてしまったり、女子との淡いふれあいを体験します。心は凍てつき、清凉寺横の嵯峨病院へ入院したら直るんやろか、と本心、真剣に思っていました。嵯峨病院は精神科の病棟で、友だちの家が経営者ということを知って、なにかしら近くに思っていた記憶があります。

大学へ行くといえば、志望する大学は国立大学しか想像できなくて、先輩たちも合格されていたから、ぼくも其処しかないとの思いで、受験勉強しなあかん、と思っていたけれど、中途半端に不良をし、暴走族して、バイトと喫茶店に入り浸り、いつも心は闇、心は病んで、悶々としていた記憶です。それらの日々から半世紀以上が経って、当時の友と昔懐かしの話をすることがあります。文芸部だった彼と、名古曽のはなしをふりかえり、そこに女生徒がいて、それから、その女生徒は、どうしたのだろうか、化野の屋敷の女生徒は、その後看護師になったと聞いたというと、どっかの社長の屋敷に住んでたんだよなぁ、とか昔懐かしいけれど、ぼくの気になる人の消息は全く分かりません。

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