自分史(2)-2-

-2-
最近、気持ちが文学系に傾いているので、好き気儘に、自分に都合いいようにアレンジして、自分のことを語る、そういうことにします。それは高校二年生のときですから、1963年、昭和38年ということになります、17歳です。詩集を出します。「そなちね」と題したガリ版刷り8ページの詩集です。突然、見よう見まねで作った記憶がよみがえります。気持ち的には、とっても惨めな感傷的な、青春時代特有の、これは冬ですから、ピンと張りつめた感覚でした。その感覚は、その後も消えることなく、断続的に続いていました。その後には今で云う不登校になり、引きこもりではないですが、昼夜の逆転があり、朝起きられなくて、夜眠れなくて、悶々と過ごす日々でした。

高校二年生になった春には、大学受験勉強をしはじめました。公立高校で大半が大学進学する学校でしたから、ぼくもそのつもりで参考書を買い込み、寝るのも削って問題集やらを解いていた記憶がよみがえってきます。一年の時に好きになった女子がいて、その子のことを忘れるためにも、受験勉強に没頭していた矢先でした。五月になっていたかと思います。吹奏楽部がないのでつくれないかという話が起きて、中学で経験していたぼくが進めることになりました。話をくれたのは梶谷くん、音楽部にいた友だちでした。もう受験勉強どころではなくて、臨時の生徒総会をひらいて、楽器を買う資金を月10円年120円を全員から集めるという話を通して、紆余曲折ありましたけど、中学で経験していた一年生を10名ほどあつめて、夏休みには没頭し、秋の文化祭には成功のステージで、あとを後輩に譲ったところでした。

高校二年生の秋には修学旅行で、およそ一週間の南九州行きがありました。この旅行には一年の時の彼女もいて、思い出したかのように、心が震えたのです。何度か顔をあわせて会話して、やっぱり忘れられなくて、というような話を彼女に告げたかどうかは定かではないのですが、ぼくの心が乱れて、いまなら精神治療になる落ち込みをしたのです。吹奏楽部の後には文芸部の人たちと知りあって、一緒に嵐山へ遊びに行ったりスケートリンクへ滑りにいったり、女子がいたから、それなりに癒された感じでした。文芸部の影響があったのかも知れません。鉄筆でガリ切りして謄写版で刷ってあわせて詩集「そなちね」を発刊したのが12月になった時でした。寒々とした風景を思い起こします。木造の教室のなかでできた詩集を一部5円で買ってもらっていた光景を思い浮かべられます。

120siryo1510240007.jpg

自分史(2)-1-

-1-
自分史というジャンルがあるようで、これは自分が自分のことを書き残すことだと思えます。自我が目覚めて、自分を対象化できるというのは、人間に育まれてきた知能のひとつだと思うのですが、これは記憶に基づいていて、人間の内面に起こってくる記憶の断片がまとまってページをつくる、このページが自分史の1ページになると思うのです。ホームページを作っていると、1ページを構成する部品をページに配置してまとめていきます。この作業を一瞬のうちにしてホームページのページがなして、パソコンの画面に表記される。

なにか自分の内面の構造を見つめてみると、デジタルネットワークやデジタル作業の一つ一つが人間の内面構成と類似だと気づくのです。デジタルでページを対面化できるようになって、自分史というジャンルが一般人の間にも広まってきたのではないでしょうか。かってありいまもある日記という記録の方法。記憶装置として紙に書かれて残されて、まとめれば本になるのですが、このことを一般人が為すには、それなりの能力がいるように思います。でも、自分のことを残したいという人間の願望を満たすために、胸像や肖像画から肖像写真というように外見が残されてきました。

今や、現代、この外面を残すというだけではなくて、内面を残すということが、できるようにツールが開発され、そのことができる認識もひろまって、自分史を残すというのがブームとなってきているのではないでしょうか。お金があれば、数百万でしようか、自分史を出版社が出版してくれます。ゴーストライターをたてて、自分のことを聞き記録して文字起こししてくれて、価値に根ざした出版社の出版物として、自費出版ということですが、残すことができる現代です。自分のことに関心目覚めて、それを残そう、そのための無料で作れるツールがあって、まさにここはそういう場です。

120siryo1510240021.JPG

日々にっき200617

_20200612_150630.JPG
梅雨とはいえ今日の空、初夏の爽やかな青空です。
さきに自分史の記事でつかった写真を見ながら、手元の本の背表紙を見ています。
一方で久しぶりにノーマルな小説を書こうとして、行き詰っています。
いかんなぁ、構想力がない、想像力といっても、イメージだけで中身がない。
エピソードを連ねていくんだけど、そのエピソードがわいてこない。
ちょっとイラつくけど、自然体になるまで、待つしかないかなぁ、とも。

今日載せてる写真は、半夏生って名前の花と葉だと聞いていて、撮ったものです。
写真論も行き詰っていて、どう展開したらいいのか、迷っているところです。
巷の工作物を撮って、変換して、表現論と名付けたシリーズを展開しています。
載せるのは直近に撮った写真を使っていますが、被写体に困ってしまいます。
マンションとか、街路とか、生活感がある被写体で生活感がないように撮る。
ほんと、自分のことは自分ではなかなかわからない、価値軸がわからないですね。


フォトクラブ京都6月例会のお知らせ

<ご案内>
フォトクラブ京都は現代表現研究所が主催する研究会的集まりの場です。
主に写真のことについて語り合います。
会費は不要、会場はアマノコーヒーロースターズさんのテーブルです。
月に一回、第三土曜日の午後2時~5時に集まっています。

<フォトクラブ京都の2020年6月例会ご案内です>

2020年6月例会は、6月20日(土)午後2時~5時です。

写真撮影の技術や制作技法の研究だけでなく、現代の潮流を話題にしています。
参加される個人が、自立していけるクラブを目指しています。
ただいま会員さんを募集しています。

詳しいことは、お問合せください。

開塾場所は<アマノコーヒーロースターズ>です。
〒603-8203 京都市北区紫竹東高縄町23-2ルピナス1F

<問い合わせ先>
☆主宰者中川繁夫へお問い合わせください。
facebook:https://www.facebook.com/profile.php?id=100047061093297

_20190803_181354.JPG

日々にっき200613

_20200612_150423.JPG
会話・対話の方法も、コロナ以後、ネットワークの中でおこなう試みがなされています。
ZOOMとかSkypeとか、テレビ電話という言い方は古いと思うけど、グループで遠隔でおこなう。
もちろん、否定するものでは全くなくて、おおいに推奨していけばいいと思っています。
通信技術の進歩だし、対面でないといけない、ということは全くなくて、バーチャルな時代です。
ぼく自身のことでいえば、あまりその通信方法の中に漬かりたくないなぁ、との思いです。
リアルに会って、会話・対話をする、というのが、基本だと思っているからです。

リアルとバーチャルの世界があると思うんですが、いまや仮想現実、バーチャルが優位のような。
リアルとバーチャルのせめぎあいなんて思っていなくて、二つの世界の融合の時代になっている。
ますます融合していって、個人の存在そのものの意味が変わってくるようにも思えます。
食って身体を維持する、結合して子孫を残す、リアルなところでは、このことが必要です。
バーチャルで、仮想空間で、セックス気分は味わえても、腹を満たすわけにはいきません。
もちろん食も摂取の方法が変わるかも知れないけれど、食の摂取を無くすわけにはいかない。

あらためて、リアルとバーチャルの世界を、どのように融合させて、境界面を意識するか。
かってバーチャルな世界は、今ほどにリアルな目に見えるようには現れていませんでした。
20年ほど前のたまごっちあたりから、個人がバーチャルな世界にはまってしまうようになった。
それからゲームがあり、いまやSNSの世界も、バーチャルの世界そのものになってきています。
ぼくなんかは人生の七割くらいはリアルな世界に生きていて、あとが混在の世界です。
年代が下がるとともに、バーチャルな世界の割合が多くなっているのではないかと思います。

日々にっき200611

_20200610_145551.JPG
自分史で、かって読んだ本を選んで、それにまつわる記憶を辿って自分を検証してみました。
硬い本が並んだ感じで、自分の硬派な過去を振り返ったところです。
でも、それらから半世紀がたって、言語の環境も大きく変わっていて、いまや軟派です。
軟派ってゆうと男ならガールハント、女ならボーイハント、女漁り、男漁り、です。
昔も今も、男女のことは、おおきな関心事です。

週刊誌に芸能人の不倫記事が載り、テレビの芸能ニュースで、こってりと話題にします。
自分としては、そのことを扱うメディアが、けしからん、なんて全く思っていません。
ただ、もう少し政治や経済のゴシップばかりでない、本質を解くような記事を求む、です。
自分の持つ時間の大半も、男と女のことであり、自分は男だから、女のことを思う、です。
ネットの中でも、関心事に向けて、奥深くへ潜入していって、欲望を満たします。

フランス文庫とか幻冬舎アウトロー文庫とか、河出書房新社のシリーズとか、読みました。
かなり精力的に読んで、日本語の状況を把握して文章、フィクションを組み立てています。
ネットの内部で、膨大な量のセックス動画や静止画があるわけで、本の時代じゃない。
画像も映像も、どんどん進化して明確になって、かってあった映画の比にもならない。
そういう時代に、なにができるか、そういう話しができる場がほしいと思っています。


自分史-27-

_20200606_111910.JPG
<共同幻想論>
吉本隆明さんの文章で「擬制の終焉」があって、これを読んだのがきっかけで、けっこうのめり込んでいったと思っています。共同幻想論、この単行本が発行された時期に学生していたから、この本をとりあげましたけど、「言語にとって美とはなにか」も自分にとっては重要だと思っています。でも、同時代というより、少し前の時代に書かれた文章だから、ここにあげたのは共同幻想論のほうです。決して易しい本ではなくて、解読するのに、ほんとにざっと概略イメージで、とらえているだけです。

写真というメディアにかかわる以前、1965年頃から1975年頃は、年齢的には10代の終わりから20代の終わりころまでです。文学に傾斜し、小説を書こうとしていて、悶々とするわけですが、そのなかで国語学というか言語学というか、そのジャンルを理解しようとしていたと思うんです。具体的に学ぶ場を持っていたわけではなかったから、興味の上滑りだけで、学問としてのなかには入れないまま、自分なりの解釈で、終わっていったと思っています。現在、ぼくが学校にこだわるのは、そういう視点で教えてもらえなかったからの体験からです。

吉本隆明さんの共同幻想論に先立つ「言語にとって美とはなにか」は、自分流にうわべだけ読んだ感で、問題提起をいただいたところです。「今、写真行為とはなにか」なんてタイトルで、問題を提起して限定百部の本を出したのが1980年でしたが、意識の背景には一連、吉本隆明さんの思想がありました。雑多に本を読み漁った、というほどに読書量は多くなくて、むしろ行動派で、モノを書いたりする方に時間をかけていたから、現在、人前でいうには余りにも貧弱な経験値でしかなかったと思っています。ひとまずここでこの自分史シリーズを終えます。