つれづれに-8-

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今年の反省をしとかなくちゃいけないな。 最悪だと思える一年だったと、朝から思っています。 一月の初めから、壊れていくことでしかなくて、一年が終わります。 こんな年、古希を迎えたという、身体的なこともあるのだろうけれど。 心的に、つらいことが続いたと思えます。 高揚していくときには阻まれ、袋小路に追い込まれ、フリーとなった。 ちょっとパソコンでやってる作業も、整理していかなくちゃいけないな。 学校の広報用にとっておいたブログも、もういらないな。 整理しようとして、整理できなかったけれど、踏ん切りですね。 新しい環境を自分で作っていかなければならないから。 フォトハウスの見直し、カフェ&プレスの構想、これまでの総決算。 思いはあるけど、からだと、気力が、ついてこないですね。 年末になって、どうしたらいいのか、わからないことばかり。 過去をどこまで捨てて、これからのことに繋げるのか。 繋がらないかもしれないし、繋げることもないのかもしれないし。 これまでやってきたことを整理していきたいと思ってきたけど。 それらのことも必要ないのかもしれないな。 古事記を最後まで読んだ、とはいっても超簡単ダイジェストですけど。

日々160627

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梅雨の晴れ間というか、青空、空気がすがすがしい感じがします。 気持ちがいい、からだが抜けていくような、素直な快感を味わう。 パソコンのやりすぎでしょう、目が重い、かすむ、頭がもやっとする。 水上勉さんが表された文庫本の「土を食う日々」を取りだしてみた。 山野草などを採りに行って料理する、という内容の本です。 もう10年以上も前に読んだ本ですが、その頃のことを思い出した。 2004年のむくむく通信のなかで、ぼく自身そういうことを書いている。 還暦前後のころって、まだ体力もあり、脳も衰えていなくて、身体がうごく。 いま、身体も脳も働いている、とは思っているけど、それほどではない。 空虚感はこういうところに宿ってきているのかも知れない。 春や秋、田舎へ行って、山にはいって山菜を採る、ということもしなくなった。 気力というものだけど、それが、なかなか、もりあがってこない。 こんな否定的なことをぐだぐだ言っていても始まらないんだ、と思う。 いろいろやらないといけない作業があるのに、それを置いといて、これ。 ここは愚痴をいうところと決めているから、愚痴っているところですが。 最近は、論という形式の文章が書けないんですね、書けていない。 もちろん、これまででも論にはならない文章ばかりだったとはいえ、です。 自分では論だと思って書いていたけれど、そういう形式そのものについて。 いけませんね、古稀って、なんだか、生死の境界線であるような、ないような。 自分とのたたかい、なんていうとかっこいいけど、泥沼のなかでの格闘だ。 青空だし、すがすがしい空気を感じるから、きょうは外へ出よう。

日々160621

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朝から自分の立ち位置がわからない感覚になっているようなのです。 なにから手をつけたらいいのか、呆然と立ち尽くす、といった感です。 「言語にとって美とはなにか」という本を取りだし開けてみる。 自然主義と浪漫主義の意味、なんていう節があって拾い読みする。 1965年、昭和40年発行、吉本隆明の名著、読み込めていないですが。 かって読んだ、吉本の思想は、いまも生きているのかどうか、ですが。 自分の今をつくっている基本形が、ここに、あるように思えます。 拠って立つ思想の原点、なんて言葉でいったら昔すぎるかとも思う。 でも、なにかしら、安心している自分があります。 現在、拡散してしまった思想の体系に、まったく順応していない自分。 そう思ってしまうことで、いつも崩壊する感覚を味わってしまうのです。 今朝なんかも、そういう朝、支えるべく基盤がない、浮遊する感覚。 ベートーベンの運命を聴く、第二楽章が気持ちに染み入ってきます。 バッハのヴァイオリンソナタを聴く、これもまた、感無量気分になります。 なんか、わけわからへん、どうしたらええのか、わからへん。 世に出たての青春を卒業する年代の迷いではなく、古希の迷いです。 ええかげん、徘徊気分だし、認知症気分だし、価値崩壊のなかさまよう。 見知った本、目の前にして安心してるけど、そんなんじゃないですね。 漱石も鴎外も、藤村も花袋も、同じ時代のなかで模索したんですね。 それからもう100年以上も過ぎても、心の在処はそんなに変わってない。 たぶん、いま、耳に聞こえる音は、田園交響曲に変わっています。

日々160610

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先だってから気になっていた作家と本と著者のこと。 朝から書棚の奥をさがして見つけた本が「湖の伝説」。 著者は梅原猛さんというか先生というか、梅原猛先生。 1977年1月の刊行で、達栄作さんから妻宛に頂いた本です。 日本画家三橋節子さんがガン、子供を残し35才でなくなられた。 その三橋節子さんの、伝記というか壮絶な生への闘いの記録。 若い母親が、夫と子供を残して死んでいく、思うだけで胸が詰まります。 ぼくの生きている年月の中で、この本を手にしたのは1978年9月です。 ぼくの写真の恩師、達栄作さんの手元から、釜ヶ崎へ取材に入ったころ。 三橋節子、日本画家、京都在住、梅原猛、立命館大学の教授でもあられた。 ぼくの周辺で起こっていたこと、梅原猛さんの講義は受けていません。 ぼくが通っていた大学で教えられていたし文学部の教授です。 梅原さんの著書はたくさん読んでいるから、ぼくの先生でもある。 三橋節子さんとは、面識もなく、なくなられてから存在を知った人でした。 三橋さん、京都や滋賀をテーマにした日本画を多く残しておられます。 滋賀県立近代美術館に収蔵されていて、展示で作品を観ています。 京都から朽木へいくときなど、花折峠を通るときには、彼女を想います。 そのころ、釜ヶ崎取材のささくれた感情を、癒やしてもらう感じでした。 自分の精神史なんて、自分で想って、自分のなかに流れているだけですが。 それらをなんとか文章とイメージで、作品化していきたいと想っているところ。 いやぁ、表現の根本を捉え直さないといけないみたい、そんな感覚です。

日々160608

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写真とは関係ないですが日曜日から火曜日まで金沢行きでした。 金沢へ行くようになって、かれこれ20年以上が過ぎました。 もう、まるで、自分の生活空間の一部となっている感じです。 最近は、行きに一日、帰りに一日、中一日が金沢在住です。 自家用車で移動するのですが、最近は目が疲れるんです。 日常的にパソコン、カメラ、などなど目神経を使うことが多いから。 そろそろ免許証のことも、運転をどうしようかとも考えるんです。 ベートーベンのピアノソナタ、先ほど29番の第三楽章が流れていました。 パソコンのスピーカーから、デジタルデーターで入れられたものです。 聴き慣れた曲、メロディー、気持ちが、記憶と結びつきました。 何してるんやろ、こんなことでいいのか、なんて自問自答している。 答えが導き出るわけでもなく、こうして時間、日々、年月が過ぎていく。 ここまできてしもたぁ、なんて想いがふつふつとわいてきます。 精神的には、昔も今も、感情の生成とでもいえばいいのか、変わらない。 変わらないと思っているのは、自分だけで、連続してるからでしょうか。 16才の気持ち、初々しい気持ち、初恋の繰り返し、そんな感覚です。 成熟なんてことはなくて、成熟してるとすれば、表現方法、手段でしょうか。 文章を、かくことができるようになった、表現として、です。 でも、これらは手慣れたことで、嘘もいっぱい、真実じゃない。 何が本当で、何が嘘なのか、なんて分からない、我田引水ですね。 自分の都合のいいことばかりで、成り立たせようとしているんですね。 ぼくは、やっぱり、誠実じゃないですね、自分の都合が先ですね。 日常のスケジュールは、他を優先して組み立てています。 でも、そうではなくて、気持ち、精神、そうゆうところが自分本位。 自分が中心、自分への興味、自分しか分からない、自分のこと。 あなたのことを知りたい、具体的なことを知りたい、これ恋心ですね。 不思議ですね、他者を求める、異性への想いという、それです。 いまはこのことに集中できるから、それがテーマとしての今、ですかね。

つれづれに160426

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京都の街が観光客であふれている。と思いしや、京都だけではなくて、大阪も、東京も、金沢も、各地で観光客が多いのです。悪いことではない、良いことの部類だと思います。観光ブームにわく京都。それだけじゃない、北陸新幹線が昨年開通したというので、金沢が大賑わいになっています。新幹線に乗るにはそれ相応のお金がかかるわけだけど、そんなもの、あるところにはあるんだから、それはそれでいい。 話は京都に戻そう。京都は観光地帯が複数あります。大きくは祇園界隈、嵐山界隈、金閣寺界隈、たぶんこれ、京都の三大観光地なんだろうと思っています。そのほかには隠れ家的な、深い京都感覚の臭いがするスポットもあります。ぼくは、おもに静止画の写真を撮って作品にしているんですが、観光地様々といったところです。京都生まれ京都育ちのぼくにとっての京都とは、という命題を抱えて、模索しているところですが。 観光客の動向を写真に撮って残す、というのはぼくにとっては斬新なアイデアだと思うところです。生活者のレベルを、外住者が撮ろうとしている京都が、あたかも京都だというイメージをふりまくなら、内住者が観光でやってきた人たちを撮って、京都の今様を残していくというのは一理ありそうだと思います。洛中洛外光絵図、そんな集積ができれば、流れ流れる文化の基底が垣間見れるのではないか、考えてみます。 おんなたちの京都、観光京都はおんなたちが花開く処です。源氏物語にはじまり、女を愛でる文化が、京都にはあるように思えます。それは男の目線であって、といって反発するのもよし、それを良しとすることでもよし。男と女が共存する京都。男と女のあいだには、動物としての愛情の質があり、子孫繁栄のための行為があり、それを取り扱う現代の商売に、どれだけ竿させられるか、が問われるところですね。

日記-3-

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アイフォンを持って散歩に出て写真を撮る。 けっきょく、京都シリーズの反復みたいになった。 平野神社へ到着して、境内にはいり、写真を撮った。 ストレート写真ではなくて、色変換などその場で施しアップだ。 Instagram、Flickr、それにPicasaと三つのアルバムがあります。 同時に、Twitter、Facebookへリンクさせて公開しています。 新しい写真集積サイトで、ぼくは原則一般公開しています。 ニコン、キャノン、それぞれにアルバムを持っています。 それからブログ、ホームページ、それぞれに写真を貼ります。 少部数の印刷書籍にも仕上げていこうとも思っています。

日記-2-

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気持が、ようやく落ち着いてきた気がします。 ここ数週間の落ち込みはなんだったんだろう、と思うくらい。 ベートーベンの運命第二楽章が聴こえています。 淡々と、淡々と、時間がながれて、イメージがちらつきます。 今日は雨、午後には上がるみたいだから、外出は午後だ。 お金を出しに行って、ガソリン入れて、灯油を買って、冬準備。 淡々と、時間が流れて、あ、第三楽章、沁みいってきますね。

日記-1-

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ただ淡々と生きていくにはどうしたらいいか、なんて言葉が、突然起こってきて、ここに記したわけですが、残された年月を、そのように生きたいと言葉の上でが書いてみても、本心は、決してそうではなくて、もっと世の中とリンクしたいと思うわけです。 食欲が旺盛、とはいってもひところの食べ方からみれば、かなり小食になってきています。とはいっても気持ちは食欲旺盛だから、食べられる量と、食べたい量のあいだにギャップがあると思っています。食欲は旺盛だけど、からだが受け入れない、ということはないが、無理すると、胃に負担がかかっているのが、わかります。 おおきな曲がり角に来ているんだな、と思います。

リニューアル

何年間かかけて貯めた記事を削除しました。 あらためてリニューアル、ぼちぼち作りあげていきます。 よろしくお願いします。
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