自分史-27-

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<共同幻想論>
吉本隆明さんの文章で「擬制の終焉」があって、これを読んだのがきっかけで、けっこうのめり込んでいったと思っています。共同幻想論、この単行本が発行された時期に学生していたから、この本をとりあげましたけど、「言語にとって美とはなにか」も自分にとっては重要だと思っています。でも、同時代というより、少し前の時代に書かれた文章だから、ここにあげたのは共同幻想論のほうです。決して易しい本ではなくて、解読するのに、ほんとにざっと概略イメージで、とらえているだけです。
写真というメディアにかかわる以前、1965年頃から1975年頃は、年齢的には10代の終わりから20代の終わりころまでです。文学に傾斜し、小説を書こうとしていて、悶々とするわけですが、そのなかで国語学というか言語学というか、そのジャンルを理解しようとしていたと思うんです。具体的に学ぶ場を持っていたわけではなかったから、興味の上滑りだけで、学問としてのなかには入れないまま、自分なりの解釈で、終わっていったと思っています。現在、ぼくが学校にこだわるのは、そういう視点で教えてもらえなかったからの体験からです。
吉本隆明さんの共同幻想論に先立つ「言語にとって美とはなにか」は、自分流にうわべだけ読んだ感で、問題提起をいただいたところです。「今、写真行為とはなにか」なんてタイトルで、問題を提起して限定百部の本を出したのが1980年でしたが、意識の背景には一連、吉本隆明さんの思想がありました。雑多に本を読み漁った、というほどに読書量は多くなくて、むしろ行動派で、モノを書いたりする方に時間をかけていたから、現在、人前でいうには余りにも貧弱な経験値でしかなかったと思っています。ひとまずここでこの自分史シリーズを終えます。
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自分史-26-

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<民間伝承論>
柳田国男さんが書かれた民間伝承論が一冊の本となっていて、この本の奥付をみると1980年発行になっています。それよりも以前に「遠野物語」を学生だった頃にざっと読んでいて、それから10年後あたりに写真記録の方法を考えていたとき、この民間伝承論の存在を知りました。採取の方法というか記録の集め方というか、1980年当時では、ぼくが写真を撮る根拠を、探し出したいと思っていたところでした。そこの住民が、そこの記録をなすことが、一番の記録だ、という話だと教えられたと思います。深読みしたわけでもなく、柳田国男さんんを研究した輩でもないから、表面的なことしか論じられないのですが。
まあ、知っているというだけで、深い処は知らなくて、もう半世紀も前に読んだ本の内容を、明確に覚えているかといえば、決して明確には覚えていなくて、でも、自分を語る場合に、自分の外にあるモノを引き合いに出して、自分を描いていく。こんな方法をとっているわけです。ぼくは研究家ではなくて、自分が触れてきたことの、それを材料として語ることで、自分のなかに自分をとらえるという作業をしているのです。柳田国男さんが記録、採取をおこなって定着させる方法として、このばあいは民俗学の成果として採取記録を残す、その方法などを考えられた結果として民間伝承論にまとまった。これをぼくが読んだ、引用させていただいた、ということでしょうか。
自分っていったい何者なんだろう、この問いが、世間ではいつごろから意識しだされたテーマなのだろうか。ぼく自身でいうと、この問題は、問題として考えるようになるのは1970年前後、二十歳を越えたあたりだったかと思います。それ以来、ことあるごとに、自分とは何者なのか、と問うてきたと思うんです。エッチなことする、仕事の中で管理者の立場に立つ、公私いろいろあるそれの総合としての自分。いま、ここで、こんなことを書いている、思考していることじたい、何をしてるんだろうと思っているわけで、ぐるぐる回る、風車みたいな、いや螺旋階段を上ったり下りたりみたいなことで、生き様を晒しているわけです。わけわからん、といいたいところですね。
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自分史-25-

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<堕落論>
坂口安吾というひとは、無頼派なんて言われていた作家のひとりですね。太宰治、織田作之助、坂口安吾、第二次大戦敗戦後の世相を反映しているとでもいうのでしょうか。やぶれかぶれ、デカダン、酒、女、遊んで遊んで、みたいなイメージでぼくをとらえてきます。二十歳を過ぎたばかりの大人というよりも、まだ青臭い遅れて行った青年だったころです。もう、全共闘の運動が終わっていって、世の中、静かになってきたあたりで、読書会しようか、なんて運動にやぶれ、生き残った数人があつまって、アパートの一室で、ちまちま、文学のことを語ろうとして語れなかった記憶がよみがえります。
坂口安吾、1906年、明治39年に生まれる、とあります。太宰治、織田作之助、文章書きの先輩って感じで、すごい人、というより先輩って感じで、でも大江さんや高橋さんとか開高さんほどには身近ではなくて、身近だけれど遠い人、みたいな距離感で、ぼくの前に生きていた人たちを眺めていては、ぼくも作家になりたい、なろう、と思っていたものでした。でも、人前で、そういうことを言えたのは少しだけで、もう結婚して子供が生まれてきたりして、でも、まだ、内心は作家になりたい、と思っていたけれど、もういいいや、と思ったときには、むなしかったですね。そんなころ一眼レフカメラを買った。
21世紀、現在は2020年、それらの年から半世紀が過ぎていて、ぼくは健在です。写真を撮って、小説を書いて、小文を書いて、ほぼ撮りっぱなし、書きっぱなし、推敲なんてしてなくて、いいままよ、撮りまくって、書きまくってやれば、いい、なんて思えるのは、無頼派の作家たちの行いとか西鶴の行いとか、結構、影響を受けていて、それらの人の真似してる、そんなふうに思っていて、初期、小説を書いたり写真を撮ったりしていた時には、そんなに簡単に人前にさらけだせることではありませんでした。小説は、ただいまアダルトサイトにて、男と女の姿を描いていますが、もうそろそろ終えようか、と思わないといけないのかなぁ、と考えています。
posted by shigeo at 09:24

自分史-24-

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<Xへの手紙・私小説論>
ひとつの物語というのではなく、短編評論の集積集というところでしょうか、表題の文章もそのうちのひとつです。小林秀雄という明晰な書き手に興味をもったのは、文学史を勉強していた自分にとって、それは必要なアイテムであったと思います。左翼から転向した評論家、という話をどこかで読んでいて、「転向」というフレーズが気になっていました。鶴見俊輔さんひきいる転向研究の成果がけっこうぶ厚い二分冊の本になっていて、買って本棚に入れていたところです。転向したという小林秀雄さん、転向後の晩年には、日本文化の美に触れてこられたと思うのですが、ぼくもいい年になってきて、その変容がわかる気がするのです。
様々なる意匠、昭和四年、Xへの手紙、昭和七年、私小説論、昭和十年、いずれも昭和のはじめのころの分析で、ぼくが読んだのが昭和45年ごろです。評論されてから40年ほどが過ぎて、テキストとして使わせてもらったところです。現在2020年で40年前といえば1980年、昭和55年あたりでしょうか。時代差と時間差で、ぼく個人の内面の推移をはかっているところです。1980年ごろといえばポストモダン概念がひろがりはじめた頃でしょうか。美術のレベルでポストモダンでしたが文学においてもポストモダンでしょう。いま小林秀雄さんの文献をそのまま適用するのではないけれど、参考文献としては役に立つと思います。
(続く)
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自分史-23-

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<風俗小説論>
明治の末期の日本文学について、中村光夫さんは小栗風葉の「青春」を忘れられた流行小説といい、同時期、明治38年に書かれた漱石の「猫」を引き合いに出し、二年後の明治40年には花袋の「布団」、藤村の「破戒」か世に出たと記しています。風俗小説論の一節、近代リアリズムの発生という項目で、風葉、藤村、花袋の三人の小説を比較検討しているのです。近代リアリズムの流れで、藤村の破戒の社会性と対比して花袋の私小説につながる作風を論じたと思っています。この「風俗小説論」がぼくに与えた影響は、といえば日本近代文学の区分けを知り、おおむねの文学史の概略をつかませてもらえた事だと思っています。
この文庫本、初版発行は1958年昭和33年ですが、ぼくの手元にあるのは1970年昭和45年発行の14版です。そのころに読んでいる、なんとなく1960年代の中ごろに読んでいたように思えますが、読書会をはじめたテキストで読んだのかも知れません。大きく影響を受けた本です。といってもすでに半世紀前、50年も前に読んでいた本で、現在、どこまで有効なのかはわかりませんが、ぼくの区分、区分けでは、いまも鮮明に思える分析です。文学の、小説の、作者になろうとして、なりきれなくて、いまも続行しながらフィクション活動をしているところですが、ぼくの文学論を知識しはじめた最初だったところです。
(続く)
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自分史-22-

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<好色一代男>
芭蕉さんと対比するわけじゃないけれど、井原西鶴ってゆう御方は、さまざまにぼくの文学観を導いてもらった一方の御方だと思っています。ぼくのなかにも、硬派と軟派が混在していて、表向きは還暦のあたりまで、ずっと硬派で通してきた、と思っています。でも、時代の流れのなかで、生きることの複雑さというか、テーマの多様さというか、性領域を扱わないと世界の全体が見えないようにも思えてきたわけです。それとは別に、井原西鶴の文学のやり方というか、矢数俳諧っていうように、一晩に大変な数の川柳を詠んだとか、好色一代男は好色ものだけど、源氏物語を意識して書いてるよなぁ、とかの話を聞いていて、とてもやない西鶴の文章を読みこなすほどには知能がないから、表面を眺めているだけです。
文学史を学びだした1960年代、文学といえば近代文学であり現代文学でした。近松や西鶴や芭蕉といった文学は近世文学というんですね。漱石のことを語った評論を読んでいるとき、吾輩から坊ちゃんに至るあたりは江戸趣味の世界だったが、近代文学、漱石の場合だと英文学の影響で近代文学の文脈を得る、という文学の構造をつくってきた作家。江戸戯作文学、あるいは明治期の風俗小説は、近代文学よりも劣るというような価値観でとらえていた自分があったのは事実です。ぼくの立場は、私小説否定派で、戦後文学の全体小説の枠組みこそ文学、フィクションだ、なんて思っていて、それを背景とした文章、フィクションをめざしていた、と言えます。実際には、モノにならなかった自分がいるわけで、あんまり大きなことは言えない立場ですけど。
(続く)
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自分史-21-

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<芭蕉文集>
岩波の日本古典文学体系で持っているのはこの本一冊だけです。大学生になって、文学を勉強する意欲に満ちていて、近代文学しか興味がなかったし、明治期から昭和40年代までの、近現代文学を読んでいたんですが、やっぱり古典も読まなくっちゃ、なんて思って、この松尾芭蕉の文学をと思ったのでした。侘び寂びというイメージの世界ですが、静謐なイメージで、茶道のイメージで、たぶんこれが日本精神の底流であろうかみたいな意識がありました。この意識が何処から生じてきたかは、明確にはわからないですが、高校のときの先生、万葉集の伊藤先生、源氏物語の小原先生、近代文学史の池垣先生、この先生からの話しで、なんとなく色艶ではなくて詫び寂びイメージを抱いてしまったのだったと思います。
京都の嵯峨に落柿舎があって、そこは俳人向井去来の庵で、その当時、何度も落柿舎を訪ね、去来の墓を見て、俳句に親しもうと意識したけれど、そうはなりませんでした。美意識ということでいえば、ぼくの意識は枯山水の庭の美、茶道の洗練された美、なんでしょうか武士の美意識でしょうか日本刀の静謐な美、美徳、くぐもった押さえつけるような抑圧的な意識としての美。俳人の意識はどんなもんだったかわかりませんが、10代の自分には、京都に生まれて京都に育った自分イメージとしての美があったと思えます。鴨長明や兼好法師を少し読み、俳句を読み、現代詩を書いた美意識です。自分の著作で出版ということであれば、たわいない話ですが「そなちね」詩集を、自作自演で発行したのが高校二年生の秋でした。
いつのころからか美の系譜を自分なりに立ててきます。表現の根底は「美」の意識だと考えています、近年では自分が生まれ育った環境にあった美意識とは、みたいな発想で、美の表現物をとらえだしていて、紫式部が描く源氏物語の男と女、井原西鶴の好色一代男の男と女、西陣織が織りなす美意識、思ってみると色艶、江戸時代には浮世絵、美人画、春画、それに人間の欲求としての性関係に至ります。年老いて身体老化してくるに反比例して美の精緻は、性の興奮するイメージとしてとらえています。日本の美意識の流れには、侘び寂びだけではなくて、色艶がそれ以上の領域を覆っているように思えているところです。
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自分史-20-

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<ボードレール全集・悪の華>
ここでボードレール論を書くつもりはなくて、書けるほどの知識も持ち合わせていないけれど、フランスの詩人ボードレールの悪の華という詩集のタイトルに魅せられて、拾い読みしていました。1960年代の終わりころでしたけど、外国文学ではフランス、仏文って表記していますね、この仏文、サルトルとかカミュとかの当時の現代作家、フローベルの小説とか、わけわからんままに自然主義とか実存主義とか、論じあって読んだ記憶があります。遅れてきた青年、大江さんが言っていたのか、自分も三年遅れで大学生になって、世間を知らない遅れてきた青年だと思っていました。
文学の有効性っていうか、飢えたる者のまえに文学は有効か、なんて問題を突きつけられていたと思うんですが、食べることに飢える人間に、そりゃ食うことが先でしょ、という結論には、心情的に落ち着かなかった。ぼくは運動家だとは思っていなくて、作家をしたいと思っていて、当時には運動家であることと作家であることは結びついていませんでした。それから10年後、写真を撮ってドキュメントを思考したときに、そのことが繋がったと思っています。10年後というと釜ヶ崎で写真を撮っていて、季刊釜ヶ崎という雑誌を編集していた時です。のちに運動家のことをアクティビストと云うと知ったのですが、これは硬派な部分の、ぼくの流れだと思えます。
(続く)
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自分史-19-

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<漱石とその時代>
文豪と呼ばれる夏目漱石を研究する、といったら文学研究する若者にとって、1960年代後半の当時においてはまっとうな研究課題であったように思えます。小宮豊隆とか、漱石研究者がおられたようですが、ぼくが触れたのは江藤淳さんの評論というか研究です。ゼミで専攻した作家は森鴎外でしたし、卒論にあたるレポートは私小説論でしたから、漱石は、傍らで読んだ程度です。でも、日本近代文学で、漱石という特別な位置にいる漱石を垣間見たことは、よかったと現在においても思うところでした。
大学教授で教鞭をとる漱石にたいして軍医である森鴎外。ぼくは、この二人の作家の素性を知ることになって、その対比で、ぼくは漱石に軍配をあげました。職を捨てて文学の道に入る漱石、軍医のままで生涯をおえる鴎外、この差について、ぼくが公務員を辞して写真の道に踏み出すとき、漱石の生きざまが、そばにあったのです。漱石の文学の「則天去私」とか、近代文学の枠組みとか、文学とは、等々の基本的な枠組みは、漱石さんからいただいたと思うところです。
(続く)
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自分史-18-

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<日本語はどういう言語か>
学園紛争が終わっていって、デモすることが醒めていって、それにかかわった学生たちは行き場を失った、いやいや、どうしたらいいのか、わからないまま路頭に迷う、そういう時期でした。三浦つとむさんの書き現わした「日本語はどういう言語か」を使って、読書会なるものが開催され参加した。非常に読みやすい表記で、この本の背後に、言語過程説なる言語学というか国語学の理論があるのでした。ぼくは、この本を紹介してくれた友達、甲斐くんに、感謝しなければならないと思います。
ぼくの言葉を駆使して文学するという理解の背景には、言語過程説の理論が網目のように張り巡っていて、それを根拠に言葉を紡ぎだしていると思っています。明確な、これだ、という核心的な言葉は見当たりませんが、文章と作中の位置関係とか、時空の位置関係とか、とくにフィクションを書くときには、コミュニケーションのあり方を想定して、書き進めています。橋本進吉著:国語学概論、時枝誠記著:国語学言論、それを受けて三浦つとむさんは、日本語の構造をわかりやすく解き明かしておられる。
影響を受けたといえば、言葉を操ることをやってきて、吉本隆明さんの著作本の、表面を撫ぜながら読んで、全体の入り口というか表面を知ったつもりで、言葉に出したりしている自分がいます。1971年に発行された「日本語はどういう言語か」を、書架から取り出してきて、いまぱらぱらとページをめくりながら、上滑りしてきた自分の人生を振り返るところです。自分とは何か、この問題に行きあたったのも、言語過程説が引いてくれたのかも知れません。理論書、言語学、国語学、その後にはソシュールとかの本も、表面を撫ぜたけれど、記憶には、この本「日本語はどういう言語か」が残っています。
posted by shigeo at 17:01

自分史-17-

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<太宰治>
太宰治の小説を読んでいるということを、他者には言えない恥ずかし味のような感情がありました。それは太宰が書いていた心情に同化していたからかも知れません。漱石を読んでる、とか藤村とか、なんか胸張って、読んでるよ、なんていう態度ではなくて、こそこそと読んでいる、という感情だったように思う。たとえば中島みゆきのファンだというには、やっぱり恥ずかしさがつきまとったみたいな、同化してしまう人のことは人に言えない。ひそかにエロ雑誌をみたり、エロ映画館へいっていたり、そういう隠す感情と同質なのかも知れません。
「斜陽」の直治遺書には、もうメロメロに陶酔するほどに共感したし、お姉さんのイメージにもいたく感動しました。会いに行って、不在でおうどんを食べながら待った、という光景がいまも思い出されますが、わびしい、しんしんとわびしさが伝わて来て、涙してしまうほどでした。ここだったか人間失格だったか、作中に西方のお家という地名があって、東京の本郷の東大の近くに西方という住所地があって、そこに勤めていた出版社の社長の自宅があって、西方、という場所で、太宰治を想ったことを思い出します。
桜桃忌には行ったことありませんし、津軽へも行ったことはありません。絶大なる人気者の太宰が、別の女と情死したとの情報で、増水する玉川上水で溺死した、なんてことを想像して、その死ぬ瞬間のことを想像して、戦慄してしまう自分がありました。もう5年ほど前か、調べ物をしていて、太宰の死体が引き上げられて、むしろがかぶされている現場の写真を見たとき、なにか、もう、なまなましい、というかそういう感情になりました。今年1月末、むかいの同期生の女子がお風呂で亡くなっていて、その遺体は布に包まれ運ばれるのを見て、太宰を思い起こしました。
posted by shigeo at 09:18

自分史-16-

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<廃市・告別>
福永武彦さんの全集のなかの一冊です。昭和49年4月23日購入の日付を入れている記念の一冊です。この本の発行日は4月20日、立命館の生協の書店で買ったもの、記憶がよみがえってきます。福永武彦さんの小説は、やっぱり冴えた美しさイメージで、多くは読んでいませんが、好きな作家でした。この日は次女の誕生の知らせを受けた日の帰りに買ったようです。見開きに記念の日付とメッセージを書いています。父28歳と書いています、まだ大学生の身分で、郵政省の事務員、郵便局の貯金窓口職員でした。小説を書きたい、書かなくては、と思う日々でしたが、もう書けなかった日々でした。カメラを買った、最初のモノクロ写真は、この次女がお座りしている写真ですから、昭和50年、1975年だろうと推定します。
立命館の学舎は府立医大前の広小路、京都御所に近い場所で、本館が研心館、正門から左にわだつみ像があって、そこが間口が広い入口でした。小学生の3年か4年の頃、母がここの地下の理髪店で仕事をしていたので、休みの日には、連れられていって、この界隈で遊んでいました。書店はその理髪店の斜め向かいだったと記憶しています。衣類を売る店があり、喫茶店があり学生食堂がありました。現在、衣笠に学舎が移っていますが、研心館とか清心館の校舎がありますね。衣笠には末川先生の記念館があり、中川会館もありますね。もう半世紀前のことですが、こうして書いていると、次から次へと記憶がよみがえってきます。
福永武彦さんの全集から一冊を記念に買って、2020年のいまも書棚に残されている一冊です。1979年8月に、ぼくは釜ヶ崎の三角公園で写真展を実行したのですが、このとき朝日新聞の記者さんが記事にしてくれて、12段ぶち抜き記事で夕刊社会面に紹介されたのです。その同じ紙面、ぼくの記事の横に、たぶん四段記事だったかと思うのですが、作家福永武彦さんの死亡記事が載りました。この話は、今の今まで秘めておりましたが、ぼくのデビューと作家の死がクロスしたと思っています。インディペンデントな写真活動を始めていく最初ですが、既存の写真グループは冷淡でした。
posted by shigeo at 10:18

自分史-15-

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<我が心は石にあらず>
昭和49年発行の版なので、1974年に読んだのかもしれません。見開きに大学の論文用原稿用紙が一枚、書きかけのままのが挟まれていて、山岸会のチラシが四つ折りで挟まれております。家族の新生活がはじまって4年目、次女が生まれる年、まだ大学二通っていた日々。同期生は卒業していたし、まだ大学に残っていた二人とともに読書会を始めたころだったかも知れません。読書会の研究作家は漱石で、当時は文学の基礎というところでは夏目漱石だったのかもしれません。漱石論がいくつもあって、江藤淳さんの漱石論が目の前にあって、でもそれはなかなか読みこなせなくて、ぼくらの実力の程度を知るだけでした。
我が心は石にあらず、読みやすかったせいか、何度か読み返しました。されどわれらが日々ーも何度も読みましたが、この我が心は一冊は、すでに公務員という身分で働き、家族を養っている自分と境遇が似ている、と思っていたのかも知れません。いつ崩壊していくかわからない自意識に、おそれながらの日々を送っていて、夜な夜な原稿用紙に向かっていたものでした。文学を研究会で語り合い、気持ちが緩んでしまった日々でした。内心、どうしたらいいのか、自立していくには、どうしたらいいのか、家族との日々に戸惑いながら、本を読んでいました。太宰治を読んでいたのは、これらの前で、すでに過去となっていたように思います。
いま、思い出しているんですが、その当時1974年ごろ、小説を書いていた記憶がよみがえってきます。短編でしたが文学賞に応募した記憶があります。コクヨの原稿用紙に万年筆で書いては推敲し、書き直ししていました。でも、次第に書くこと自体が進まなくなります。ニコマートのカメラを買ったのは、その当時ですが、それは写真家になろうとかの目論見は全くなくて、カメラ屋さんに勧められたからです。家族をもったらカメラを持って写真を撮る、これですね、8ミリでマガジンポン、動画はやりませんでした。最近、スキャンして、当時のフィルムをデジタルに変換して、ブログに掲載しているのもあります、もう半世紀まえの出来事です。
posted by shigeo at 09:13

自分史-14-

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1965年初版発行1966年2月四版のものを買ったようです。ようです、というのは買った時の記憶がはっきりしないからです。1965年は高校を卒業した年で、三条新京極角の十字屋楽器店に勤めだした年で、お金をもらえるようになったから、レコードと本をたくさん買いだした時でした。十字屋の前に、リプトンがあって、本屋さんがあって、その本屋さんで本を買っておりました。それから取次店へいけば卸値で買えたから、全集もんなんかは取次店(日販だったか)で購入しておりました。ええ、これは「憂鬱なる党派」高橋和巳の書下ろし長編小説で、読みましたよ。内容は、学生のころの政治論みたいは内容だったかと思うのだけど、内容がわからなかった。けれども読み終え、再読はしていません。
主人公の西村が、教員をやめて広島原爆被災者の体験を聞き取り、原稿用紙にまとめた、という話になって、出版するべく出版社を訪ねるのですが、ことごとく断られる、この原稿用紙を包んだ風呂敷を持ったまま、釜ヶ崎の住人となっていく、という筋書きだった記憶があります。もし書き間違いのところがあったら、読まれた方、教えてください。この最後のほうの、西村の行方ですが、小説家には、または小説には、破滅型ってゆうのがあって、これは破滅型小説になるかと思います。ぼくの当時でいえば、太宰治を読み始めた時だったし、この破滅型にはまり込んでいきました。なぜ、ここで「憂鬱なる党派」をとりあげているかということを、次に書きます。
釜ヶ崎へ行こうと思って行くのは1978年9月のことでした。その頃に、鮮明に思い出されてきたのが、憂鬱なる党派の西村のことでした。ドヤで死んでしまったあとに残された原稿用紙で、紙飛行機を作って飛ばして遊ぶ子供の風景があった、この現場、釜ヶ崎、そこに来ているんだ、という自意識がありました。1966年から1970年までの、学生運動のながれは、いまでも語られることがありますが、その時代の中にいて、終わって、10年が経って、1979年夏、釜ヶ崎に写真取材し、文章を書き、していたことを思いだします。もう40年も前の出来事で、時代とともに釜ヶ崎のありようも、文学や小説のありようも、変化してきたと思えますが、自分史に書き加えておこうと思います。
posted by shigeo at 10:10

自分史-13-

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ほんとうはブックカバーチャレンジの最初の一冊なのですが、ここでは2回目のされどわれらが日々ーから連載したので、あらためてこの万葉集を載せます。万葉集についての知識がそれほどあるわけではありません。文章を書こうとおもって、いま、パソコンの前にいますが、言葉がでてきません。ウイキペディアで検索しながら、コピペしていけば文章になるとは思うけど、なるべくそれはしたくなくて、自分の知識で文章にしていきたいと思うのです。
すでに手元には、写真や現代美術関連の書籍はほとんどありません。このまえにはギャラリー176とそのビルに企画されているギャラリーのために持って行ってもらいました。あと文学関係で、ぼくの勉強のかなり前に手元に置いた資料としての本が残っています。それと2000年前後に読み漁った小説やらの文庫本、新書本、それらの一部が残っているだけです。太宰治全集と堀辰雄全集は手元にあります。漱石全集、谷崎全集、アートワークスなどは、メディア図書館へ持って行っています。ここで、これからは資料なしのまま、駄文をつらねていこうと思っています。
大島貴代さんから引き継ぎのブックカバーチャレンジの一回目は万葉集にしました。高校時代に伊藤博先生がいらした。万葉集研究の先生で文芸部の顧問でした。この本は当時に買ったもの1963年。昨年、令和の年号が万葉集のなかにあるとゆうので、探して、見つけて、驚きました。あまり万葉集は深く読んではいません。現在ぼくの手元にある文庫本では一番古い本かも、文庫本の詩集などはもう廃棄してしまいましたから。でもこれは残っていました。今いる自分に影響している本をあと6冊選んでいきます。よろしくです。
posted by shigeo at 14:25

自分史-12-

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<湖の伝説>
主婦で画家で子育てしていた三橋節子さんに癌宣告。右腕の切断を余儀なくされ左手で絵を描く。思うだけで壮絶な気配を感じます。物語は、梅原猛さんが評論として三橋節子という画家を描き出されます。1977年、本が手元に届いたのは翌年、達栄作さんから、妻あてに寄贈していただいた本です。それらの日々から40数年が立った今です。ぼくは釜ヶ崎へ行きだしたときでしたし、恩師として崇める写真家の達栄作さんとの議論から独り立ちしていく時期でもあるし、さまざまなことが交錯してくる現在です。
ブックカバーチャレンジの七日目は、湖の伝説、1977年発行の1冊です。大津在住の日本画家、三橋節子さんが若くして、子供を残して、癌で亡くなられます。その三橋さんを梅原猛さんが評論します。表現者の執念を悲痛なまでに感じます。作品が滋賀県立近代美術館で保存、展示されているのを見ました。感動を受けたのはやっぱり表現者の執念です。また梅原猛さんは立命館の先生もしておられて、その著作は、その後たくさん読ませていただきました。ぼくは古代イメージを抱かせてもらいます。それからブックカバーチャレンジの最後です、誰かこの後を引き継いでくださいね、よろしくお願いいたします、ありがとうございました。
posted by shigeo at 10:20

自分史-11-

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<黒い雨>
井伏鱒二さんの小説。昭和41年10月発行、広島原爆投下のときの惨事を扱った小説で、ぼくは発行されたそのとき読みました。ぼくの年齢としては二十歳で、高校を卒業して勤めていた十字屋楽器店の二年目になる年です。この年の年末で十字屋楽器店を退職して浪人生活にはいります。音楽家のなる気持ちから、小説家になりたいと思う気持ちのほうが勝ってきた時期でした。退職するときに作家になると言ったら笑われた、いまでも思い出しますね、職場でえらいさんが、笑ってた。小説を読んでいました。むさぼり読んだという記憶はありませんが、けっこう同時代の作家の小説を読んでいた記憶はあります。
ブックカバーチャレンジ六回目は井伏鱒二さんの黒い雨。1966年発行、内容は広島に原爆が落とされた惨事が書かれています。ぼくは二十歳で社会状況にのめり込んでいく年代で、感動を受けた小説でした。当時読んでいた小説に、戦争を背景にしたものが多いのですが、原爆を扱った小説ははじめてでした。社会派小説、全体小説を目指していたぼくには、小説としての構成の仕方とか、感化されたものです。自分の思考と行動のルーツをたどっていくと、表向き硬派な表現をめざした正義みたいなものを、時代に後押しされていた気がします。
posted by shigeo at 09:52

自分史-10-

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<春の雪>
三島由紀夫という作家のことは、ぼくはあまり触れてきませんでしたが、フックカバーチャレンジのシリーズにこの「春の雪」を加えることにしたのです。写真集「薔薇刑」を中古本で買ったのは1980年代になってからでしたが、小説「豊饒の海」三部作のうちの第一部「春の雪」を発行当初から手元に置いてあります。ほかの作家の書下ろし小説とか、われらの文学とか、いま、その当時に揃えて、読んでいた単行本は、もう手元にありません。何冊か、捨てられずに残っている、残滓ってゆうんだと思っているけど、残りカスです。でも、手元に残っているというのは偶然もあるけど、捨てられなかったということにほかなりません。
昭和44年1月発行、話題の書だったから手に入れたと思うのですが、この年のその頃は、街頭に赴いて行動のときでしたから、本を読むことは気持ちが浮いていてできません。この本「春の雪」は読めていません。前年の秋に出版社「有信堂」に職を得て、京都百万遍に社屋があって、そのに勤務していて、この年のこの時期に起こった京都での出来事を目の前にしていました。京大北門から農学部正門の間の今出川通りがバリケード封鎖されるという現場に居合わせたのです。警察機動隊が大学構内へ入ってきた最初の道路封鎖は、火炎瓶が投げられ黒煙とともに炎上する光景でした。この光景を見ながら、3月、東京勤務としてもらい、この年の10月21日、国際反戦デーのときまで、東京は本郷のアパートにに住んだのでした。
ブックカバーチャレンジ五回目は三島由紀夫の春の雪。1969年発行ですが、この1冊が手元にあります。ぼくにとっても激動の年で心穏やかではありませんでした。盾の会の行動はよく報道されていたし、この年の春にぼくは東京へ赴きました。三島の本は当時には読みきれていません。耽美な三島を読み出したのはもう50才を越えてからでした。豊饒の海三部作の第一部、ひとつの時代の象徴でしょうね。死んでから半世紀経って意味を持ってきた作者と作品かと思いますね。この先日本どこへいくのかです。
posted by shigeo at 21:16

自分史-9-

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<厳粛な綱渡り>
大江健三郎というひとが小説を発表している、エッセイ集が書店に並んだ。高校生のときというより十字屋楽器店の技術部に就職して、エレクトーンの調整や修理を習っていたころだと思っています。音楽と文学に興味が向いていて、音大に行こうと思ってピアノを習いだし、友だちからの影響もあって、小説を読みだして、堀辰雄やアポリネールやから太宰治を読むようになって、文学かぶれになっていく年頃でした。すでにそのころには大江健三郎さんは、時代の旗手のような立場、開高健とか、高橋和巳とか、音大は無理なので大学では文学を勉強しようと思って、十字屋楽器店を二年で辞め、一年浪人して大学へ、立命館の二部文学部にかろうじて合格でしました。
文学活動をするのは大学にはいってからで、1968年に入学し、学友会公認のクラブ、文芸サークルに入って、小説を書いて発表したところですが、そのサークル誌は現在手元にありません。学生運動が盛んになりだした時で、全学共闘会議とか、クラスの闘争委員会とか、なにやら大きな波が起こってきて、ぼくも翻弄されていくことになります。三年遅れで大学生になったぼくは、三年年下の人らと経験を共有します。ぼくは働いて稼がないと生活できない環境だったから、いくつかの仕事を経て、出版社に職をえて、1969年の春先に、東京へいくことになりました。東京は憧れで、小説家デビューするのには東京在住でなければならない、見たいな思いがあって、上京っていうんですね、上京しました。
1969年初め、京都での一連の機動隊との衝突にたちあい、東大全共闘が安田講堂占拠して陥落したときは京都でした。本郷の正門と赤門の間の前にあった出版社で、営業見習いみたいな立場で、取次店への配本とか、返品されてきた本を磨いて再配する作業とか、小説を書くどころか、そういう時間も作れないままに、夏から秋を迎えました。上京した当時、安田講堂前には投げられた石が散乱していたし、ガス銃のあのガスの匂いがぷんぷん残っていました。そういうことを目の当たりにして、中央にいる、という意識の中で、22歳から23歳を過ごしたのです。10月21日は国際反戦デーで夜にはべ平連のデモに参加しましたが、そのときには京都へ帰る気持ちでした。
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自分史-8-

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<わが解体>
高橋和巳という小説家、いやエッセイスト、大学教員、中国文学者、いろいろな側面を持った秀才だったと思う。ぼくが高校生の頃にはアサヒジャーナルだったかも知れない、小説を連載されていた「邪宗門」の記憶がよみがえってきます。鳴滝に住まわれいた楠見七郎くんの部屋で、その小説を読んだというより見た記憶があります。高橋和巳を知るのは、いつだったろうか、大学へ入ったころかも知れない、1968年。ここにある「わが解体」は、彼の最後の著書で、発売を見ないで死んでいったのではなかったか。
その頃は京都大学文学部の助教授職にあって、学生運動の真っ只中、学生側か大学側かで、本人自身が揺れ動いていたように見受けられます。ぼくが入った立命館でも講師をしていたといい、作家としては近い関係で親密におもっていたけれど、お目にかかる機会はなかった。その当時、京都には高橋和巳氏がいて、文学同人誌「バイキング」の同人で小松左京氏なんかといっしょだったと聞いた。ぼくは憧れていたけれど、同人雑誌に参加したことはなかった。いいえ、関西文学という同人誌があって、そこの会員に登録したけれど、例会に参加するほど近くはなかった。
高校卒業して三年遅れの1968年、立命館に入学したぼくは、1969年休学して東京の出版社に勤めた。20.21を終えて、京都に戻ってきて、1970年に結婚、大学に復学、1971年に長女が生まれた。その生まれたという日、8月5日に買い求めたのが「わが解体」でした。見開きに記念の詩句を書いていて、読み返してみると、なんと力んでいたことかろ思うのです。1971年というのは、もう学生運動が表からは衰退していった時期で、その思いは内にこもっていました。三島が自決し川端が自死したころではなかったか。ぼくは郵便局の窓口事務員になっていて、惨めな気持ちにあふれていたけれど、どうしようもなかった。
posted by shigeo at 15:20

自分史-7-

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<小説、されどわれらが日々ー>
ひょんなきっかけで、昔読んだ本をリストアップして、それに文をつけることになりました。そこで、人生を経てきた自分が影響を受けたと思われ、なお文章も書いて、残しておきたいと思うので、ここに残すことにしました。このブログにて書いている自分史の続きで、アトランダムに載せていきます。
これ、されどわれらが日々ー、柴田翔さんの小説、1964年の夏は、ぼくが高校三年生でした。書店で芥川賞作品が掲載されている文芸春秋を買いました。文学に興味を持っていて、たぶん、そういうことから買ってみたんだと思います。夏の日、暑い日、汗をかきながら読んでいた光景を思い浮かべます。いっきに読みました。六全協って、詳しいことはあとで知ることになりますが、方向転換する共産党のことが背景にあり、そのなかにいた学生たちの群像を描いたみたいな小説なのです。
もう18歳になっていましたし、大学受験をあきらめて、就職することにしていた夏休みで、この本一冊に出会って、ぼくにおおきな変化が起きたと思っています。愛と死を見つめて、という交換日記みたいな実録がベストセラーになっていて、それも読みましたが、この、されどわれらが日々ー、この小説から受けたショックは、相当なものだったと思っています。佐野という学生、優子という学生、この二人が自死します。それぞれの遺書が載せられていて、それをめぐって語り手のわたしと恋人らしい節子との物語になります。
ぼくが現在進行形の日々に、小説をリアルタイムで読んだ初めての小説です。ぼくの読書歴でいえば、それまでは、内外の名作を読んでいたし、詩集を読んでいたし、それに高校二年のときには詩を書いて詩集を発行した自分がいて、そういう文学経験のなかで、おおきな転換点となった小説でした。自分の人生でいえば、大人になっていく入口だったように思えます。小説を書こうと思いだし、小説家になろうと思うのもこのあたりからで、音楽家か小説家か、みたいな漠然とした将来を思い描いたころだったと思います。
posted by shigeo at 16:08

自分史-6-

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いまでも記憶がよみがえってくるのですが、これは小学校三年生の学習発表会の光景です。真ん中の鉄琴の前にいるのがわたしです。1956年昭和31年でしょうか、リズム合奏のステージです。音楽は中学卒業まで試験はいつもトップでした。得意だったんでしょうね。高校生の三年間、クラス対抗の合唱コンクールがあって、わたしが指揮して毎年優勝していました。音に敏感だったのかも知れません、今もって、音楽を聴きますから、といっても西欧音楽です。
日本の音楽、雅楽とか長唄とかとかとか、親しんでこなかったから今もってわかりません。つまり、西欧音楽が音楽だという戦後教育の真っ只中に義務教育を受けていたからだと思うのです。それ以外に音楽に触れる機会は、父が愛好してた流行歌のほか、知る由もなかったのです。美空ひばり、島倉千代子、三橋美智也、春日八郎、ドーナツ盤のレコードで聴きました。でも、祖母の部屋には、三味線がありました、そんなの弾いていたんかなぁ、でも弾いてるところを見た記憶はありません。
中二階の四畳半には和タンスがありました。上部が引き違い戸になっていて、開けると樟脳の匂いがしました。そこに雑誌があったので手にすると、それは奇妙な雑誌でした。奇譚クラブ、風俗草紙、それぞれ数冊積んでありました。わたしは、奇妙なその雑誌の記事を読みました。江戸川乱歩の怪人二十面相、少年探偵団、鉄人28号とか鉄腕アトム、それらの愛読とともに大人の雑誌も愛読しました。性にまつわる男と女の世界を、また性交の仕組み図を、まだ性に目覚める前に見ておりました。
posted by shigeo at 11:52

自分史-5-

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<1946年頃>
生まれた頃の話をしておかないといけないなぁ、と思ったのは、写真にしたこの証明書とかが見つかったからです。昭和21年4月28日に生まれたという妊産婦手帳(母子手帳)の一ページ目記載と配給を受けるための居住証明書ですね。その頃の記憶といえば、ほとんどありませんが、いくつかフラッシュバックしてくる記憶があります。モノクロ写真のような静止した光景ですが、ひとつは保健所の前の樽に捕獲したネズミを入れる、その樽の縁を持って中を覗き込もうとしている自分の光景。ネズミを捕獲するとお金がもらえたみたいに思えます。いくらくらいだろう、5円でもくれたのか。それから天皇が京都へ来た、その車列を神泉苑の前で見た。これは三歳くらいかも知れない、天皇が全国を巡っていた一環だと思います。大相撲が家の隣の広場に来た。壬生馬場町、いまは住宅が建っていますが、当時は焼け跡だったのか広場でした。そこに土俵がつくられ、興業があって、それを見ていた記憶です。家の前に市電が通っていて、花電車が通った。飛行機がビラを撒いていて、ひらひら舞うそれを拾っていた。
バラックのような家屋が市電通りにあって、そこは果物屋さんで、果物が陳列されていました。メロンとか、バナナとか、でも買ってもらった記憶はありませんが、そこには男の人がいて、その人のお嫁さんは、病気でお亡くなりになられていた、という話を聞いたのを覚えています。ぼくの家は和漢薬の店で、地下室がありました。前の居住者が花屋さん、という話はおふくろから聞きました。おふくろの父、ぼくの祖父が烏丸六条で井上和漢薬店していて、その支店として壬生に店をだして、そこにぼくの家族が住んだ、というわけだろう。これらは戦後のことです。和漢薬店だというので、衛生指導とかをしていた、というのは後になって知ることになります。この衛生指導って避妊具の使い方とかを教えていたのか、と想像していますが、その指導書みたいな本を見つけて、読んだのが小学校の五年か六年のころでした。これはもう1958年頃の話です。それらの記憶をこうして書けるのは、その後に何度も思い出しているからで、突然に今思い出すということはありません。当時の写真を見ると、記憶が蘇ってきますが。
posted by shigeo at 10:37

自分史-4-

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-4-
<1960年頃-2->
先日、卒業した小学校の校庭で、グランドゴルフ大会があったので、参加ました。校庭の片隅に石碑があって「朝鮮民主主義人民共和国帰還記念・・」とあり裏には1959年9月の年月が刻まれております。ぼくの記憶をたどっているのですが、前回には1959年に小学校を卒業と書いていますが、たぶん実際に1959年は小学校6年生で、1960年3月が小学校卒業、この年の4月に中学に入学することになり、やっぱり安保のテレビ映像は中学一年生のときだ、と確信です。さて、1959年9月ですが、鮮明に光景の記憶があります。同級生が祖国へ帰る、たぶん父母といっしょに帰る、というので担任の先生と生徒数人で京都駅まで見送りにいきました。船は新潟から出航、そこまで列車で行くというので、国鉄京都駅の改札口の近くまで行きました。ホームに列車が見えたから、現在の0番ホームです。雑踏、怖い気持ち、怒鳴るような喚声があり、列車の前に警官が横並びで立っていた、そういう光景がよみがえってきます。
いまも住んでいる小学校区は、朝鮮から来た一世の人たちが居住している区域がありました。二世の人たちが学級のなかにいて、国語と社会は、たしか別の教室で授業をうけていたと記憶しています。ぼくの小学校区は、地域的には西陣の縁で、西陣織に関与し、機織りの家がほとんどでした。思想的には革新の人が多かったと思っています。というのもいつの間にかぼくの立場が革新系になっていたからです。革新というと共産党か社会党でしたが、自転車屋のおじさんは共産党系だったと思えます。それから、友達のなかに朝鮮系の女子がいて、中学卒業する前には、朝鮮学校の見学に同行しました。詳細は控えますが、その女子は、高校は朝鮮学校へ進学しました。中学へは三つの小学校区からの進学でした。ぼくの校区は、他と比べて、勉強の出来が悪い奴ら、みたいな見られ方をしていました。ほんとかどうかは定かでないですが、公立高校への進学者は少なかった。
中学二年生になったころ、男女のグループができてきて、そこにいました。何人ぐらいか、女子が5人くらい、男子が2人のグループでした。そのグループに近いところにいた女子が、のちになって赤旗の購読を勧めにきたので、日刊と日曜版と保存版の一式を購読するようになりました。これは高校卒業したころで、数年間購読した記憶があります。あまり熱心な読者ではなかったけれど、です。1960年4月、中学に入学、吹奏楽部と物理部に所属、図書委員をやることになりました。図書館には一年上級の女子がいらして、年上の男子たちがその女子について猥雑な話をするから、興味を持っていて、図書委員になって、その上級の女子から、図書のことをいろいろ教えてもらいました。性に目覚めるころ、犀星の小説にそんなタイトルがありますが、性に目覚めるころ、14歳、15歳、そんな年齢ですね。
posted by shigeo at 16:13

自分史-3-

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<1960年頃>
たぶん小学校卒業が1959年ではないかと思うんですが、まだテレビは白黒で、全ての過程に一台という時代でもなく、近所のテレビがある家へ子供たちが見せてもらいに行っていた。1946年生まれだから、中学生になる4月には13歳になったと思います1959年、平成天皇のご成婚があった年です。テレビでパレードを見ました。
それから1960年には、中学二年生、あの安保闘争が起こっていて、テレビでデモ隊の映像が流れていて、興味深く見ていた記憶があります。日常のなかでは、吹奏楽部に入っていて、クラリネットを吹いていて、熱心にクラブ活動をしていました。担任の若山先生から、知能指数が130あるから、京都大学に行きなさい、と言われたのです。この言葉が、いまも、私のなかに大きなウエイトをしめていたなぁ、と思えて仕方がないのです。
載せた写真は、小学校の六年、卒業前の記念写真だと思います。昨年から、小学校の同窓会が開かれて、出席しました。役員みたいな立場で参加しています。写真の顔ぶれ、何人がいまにつながっているのか、懐かしい、小学生のころの出来事を、写真が残っている限りで思い出します。もう、四年ごろから恋心が芽生えていて、松島とも子にはとっても会いたい気持ちでした。学校の女子には、まだ四年では好きの感覚はなくて、五年か六年になると、好きな女子ができて、でも好きだなんて告白はなくて、一緒に暴れて遊びました。
頭はよかったみたいで、賢い子でした、勉強ができた、理解が早かった、クラスのトップはY君で織屋の商売屋の子供で、その次が私で二番でした。鉱石ラジオを組み立てる、トランジスタが出てきたころで、真空管ラジオを組み立てるのは中学生になってからでしたが、アマチュア無線に興味がわいていて、ひとりで勉強して、免許の受験申請をしたのが六年生のときではなかったか。試験地が大阪でしたから、受験にはいきませんでした。高校生になって、赤十字社の無線室で電波を出したことを、いま、思い出しています。
posted by shigeo at 17:35

自分史-2-

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-2-
<内灘再訪>
先に内灘で撮った45年前の写真を載せたことから、内灘が意識のなかに遡上して、一昨日(2019.9.18)内灘へ行きました。JR金沢駅からいまは地下発車になる北鉄に乗って、およそ20分、内灘駅に到着。記憶では駅から数百㍍でしたが、実際は1キロ。海に向かって歩いていきました。もうあたりは住宅地になっていて、のどかな光景に思えます。でも私の心は、深い闇の世界へと赴く感覚でした。とてつもなく大きくて広い世界の、闇の領域へ、自分を見失うほどに、沈みこんでいくのでした。風があって、砂が舞うので、波打ち際までは行けなくて、海は遠望するしかなかったけれど、ここの砂浜はだだっ広くて、訪れる人もなく、晴天でした。
1970年が過ぎたころ、反鎮魂という文学同人に加わって、小説を書きだしました。その冒頭が、冬の内灘海岸の描写からでした。凍える炎というタイトルで、長編になる予定でしたが、第一章原稿用紙それでも50枚くらいだったか、書いて中断、未完になりました。内灘闘争が背景にあって、その後の主人公たちの生き方を描く、なんてちょっと硬派な小説を想定していました。1974年ごろには気持ちが緩んでしまって、文章が書けなくなっていて、そのころ手にしたカメラに活路を見い出しだしました。写真への傾斜は、このころから始まりました、1975年の春ころです。
(続く)
posted by shigeo at 10:40

自分史-1-

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<映像情報のころ>
-1-
1980年8月、映像情報というフリーペーパーを発刊しだします。使ったイメージ(写真)は内灘の風景。1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本独立となりますが、この年、石川県の内灘海岸に米軍の砲弾試射場が建設され、反対運動が起こったという歴史があります。映像情報の創刊号に、その弾薬庫の跡を撮った写真を使っています。撮影は1975年か76年じゃなかったかと記憶しています。夏に家族で海水浴にいったところが内灘で、買ったばかりのニコマートで、モノクロフィルムで初めて風景を撮った写真がこれでした。
初めて内灘を訪れたのは1965年、私が高校を卒業した年です。訪れたいきさつは書きませんが、そこで見た風景が弾薬庫の跡でした。追って、それ以後の私の履歴についても、書き及んでいきたいと思いますが、いまは飛ばします。それらから10年の後に一眼レフカメラを買い、家族を撮っていましたが、このときはモノクロフィルムで撮った何本目かで、海水浴場内灘へ行った家族の写真のなかに、数コマ、弾薬庫跡を撮っています。もちろん、歴史上の記念碑的スポットとして認識しており、その後、1980年に映像情報を発刊する表紙に、その写真を使い、執筆した「私風景論」のなかにも数カットの写真を使用しています。
一枚の写真、その重みという言い方をすれば、私にとっては重い一枚の写真でした。現在2019年ですから、撮られてから45年ほどか起ち、人目に触れさせて39年という年月が過ぎています。やっぱり私はこだわっている気がしています。私風景論は1978年の夏に執筆した文章で、それを書き上げたのち、同年9月、大阪は西成区の釜ヶ崎取材に入ります。最近になって、私の探求グループに参加しはじめ、私を探求するとは、どういうことなのか、と自問しているところです。私の私風景を表出させる試みが、あらためて浮上してきているといえます。
(続く)
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posted by shigeo at 08:53

自分史プロローグ

私の探求、自分とは何か、第一人称の私、自分、これがこのブログでのテーマです。これまでにも自分についてあれこれ詮索しながら書き残しているところですが、あらためて、自分探求を試みます。アプローチの矢の射りかたというか方向は、外に向け、内に向け、軸をどこに置くかで話の筋が違ってくると思います。
どういう方向で、何を話題にして、自分史を構成していこうかと、思案しているところです。自分史を書こうとする動機は、先日の研究発表が契機となっているから、やっぱり第一部は、1970年代半ばから1980年半ばまでの10年間を俯瞰してみるのがよかろうと思います。私の探求にもつなげたいし、自分の枠組みを作るためにもつなげていきたいと思います。では。
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posted by shigeo at 10:58