徒然にっき-35-

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2017年の12月30日です。 今年、自分のまわりに、なにがあったのか、を振り返る。 毎年恒例になっている反省と来年への展望、というところです。 成果もあれば、じくちたる思いを抱いたこともたびたびでした。 だれかのせいにするのは簡単ですが、それは空しいからやらない。 自分の、何が、いたらなかったのか、ということが必要な事。 時代に即していない、理解されない、独断と偏見に満ちている。 思うこと多々あるけれど、だからと言ってどうしようもない。 いちおう年の区切りとして、このブログにいますが、どうしようかな。 アルバムが無くなるみたいだし、ブログの人気もどうなのか、です。 ここはビッグローブで、ネットにつなぐところで世話になっている会社。 ここでは、かなり本音的に、まとまった文を書いてきたところです。 どこか、乗り換えるほうが、いいのかも知れない、と思ったり。 長年、やってきたブログだから、記事を書くのを減らす程度かと。 時代に即応するブログではないな、そのように思えます。 フォトハウス表現研究所、これがぼくの今年のキーワードです。 紆余曲折して、フォトハウス表現塾を創ろうとしているところです。 起業としては、お金を排除する方向だから、人気ないな。 お金が動くところに、ご利益求めて人が集まる、ここはそうではない。 独りぼっちの淋しさを癒す場として、人が集まる場をつくろうというもの。 来年は、静かにしていて、なるようになることを見守ろうか、とも思う。 失意の一年だったと思うから、来年72才、まわり年です。

徒然にっき-34-

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11月23日に撮った写真がコンパクトデジカメで撮った最後です。 いつも持ち歩いているけれど、スマホで撮ることで、済ませているなぁ。 スマホでインスタグラムに載せる、そこからアメバ、ツイッター、フェースブック。 最新の発信ツールを使っているといえば、年の割にはかっこいいけど。 でも、フェースブックで、いいね、なんてほとんどこない、でも感謝です。 みて、いいねしてくれるひとがいて、なんだかとってもうれしいきもち。 いいねをねらって、それだけのもん、なんてけなしはしませんよ。 ネット上で、スマホのカメラで撮った画像が、いくつかに拡散できます。 SNSは、インスタグラム⇒ツイッター⇒フェースブック、と連動していきます。 ぼくは、この流れをつかって、自己表現していきます。 でも、反応が少ないということは、条件を満たしていないということじゃないか。 なにもかもが不発に終わる今年の流れで、しょんぼりしていますけど。 京都写真クラブに所属させてもらうことを申し出ました。 帰属意識って大事なことですよね、家族への帰属、組織への帰属。 ぼくなんぞは、どこへもすんなりと、はまり込んでこなかった人でした。 仕事は郵便局でしたけど、不本意なことで、それ以降、転々としています。 組織に入って光影会、それから写真をメインにやってきて、いま、空転してる。 フォトハウス表現塾を立ち上げたところですが、ここで打ち止め終了、かな。 まけてたまるか、この気持ちだけで、やってきたけれど、もういいですよね。 今年は、この徒然にっき、最後になるかも、来春からタイトル変えます。 どんなタイトルにするかは、決めていませんが、日常か日記ですね。

徒然にっき-1-

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西暦2017年、平成29年、歳の初め、今日は元旦です。 あれこれ、昨年は50数年ぶり、心の災難だったと思っています。 今年は、これまであった関係を終えて、新しい関係を創りたい。 もう、あと10年くらいしか時間がない、との思いがあります。 年齢70を越えてしまった自分がいます。 周辺大方の男子、その寿命が80歳前半のようです。 新しいことを始めようとの気持ちはあるけど、体力が、精神力が。 新しいことを、といってもこれまでのアレンジでしかないのだけど。 何かしてないといられない性格のようなので、仕方がないと思う。 16歳のころの感覚が、今の歳になっても、同じような感覚だと思える。 でも、これは、たぶん、うそで、体験が同じようだということで、そう思うのかも。 一昨年、昨年と、気持ちが落ち着かなくて、迷い系だったと思っています。 今年は、新しい決意で、新しい気持ちで、新しいことを始めたい、と思う。 ボードレールに詩集をだしてきて、ぱらぱら、めくっていました。 新しいところでは、古事記の世界に興味が傾いているなぁ。 それらの統合イメージで、作品が創れないか、とも思うところです。 作家まがいのことやっていかないと、評論だけでは、いけないな。 東松さんが、作品を作りながらの行為だ、と暗示していらしたから、ね。 フォトハウスの生成について、書き始めたところですが、東松照明さん。 今日は達栄作さんの写真を、記憶の写真、として別ブログにあげました。 先輩として影響を受けているのは、達さんと東松さんの二人です。 達さんのところで学んだことで東松さんとつながった、と考えるのが妥当です。 達さんと撮影に行った余呉とか、伸子さんとか、懐かしい写真を先に見ました。 今年は、そのへんから掘り起こしていかないと、いけないのかなぁ、と思う。

つれづれに-7-

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文字清さんと飛鳥へ連れて行ってもらっています。 このまえ11月29日には天の香久山へ上ってきました。 それから藤原宮の発掘中のところ、そのあとは今井町へ。 古事記の世界ですが、ここまで来たかという感じですね。 命あるあいだに、神話の世界に触れだしてよかったと思う。 なにより、文字さんと、こうして同行できるのが、うれしいですよ。 あれらから一年が過ぎて、あれらが過去のこととなっていきます。 写真図書館から手を引き、新しい勉強がはじまったという感じです。 最後の、未知への挑戦ということになると思うところ、古代史です。 未練を持ってちゃいけない、棄てきらなければ、次がないです。 辛さも、もう過ぎ去っていくじゃないですか、もういいじゃないですか。 東松さんとのことを書いておかなくちゃ、フォトハウスの創世記。 稲垣さんがん治療、こんなことになるなんて、本人もいうとおりです。 闘志がある人だから、尊敬します、なんというか強い人です、尊敬します。 70歳を越えて、釜ヶ崎の運動一徹、素晴らしいと感動します。 当分はレンタイフェスタと裁判傍聴、ぼくにはこれしかできない。 梅澤さん、昔のことは、もう話さないで、このまま終えるのがいいですね。 なんかしら、人間模様、古事記の時代から現代まで、よく似たものですね。

つれづれに-6-

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第九がパソコンのスピーカーから流れ出てきています。 聴き慣れた旋律、ベートーベンの最大の交響曲、12月に聴く。 音楽については、素人の部類だけど、ずっと聴いています。 とくにベートーベンというのは、相性がいいのか、よく聴きます。 なんだかんだといいながら、結局、ベートーベンに戻って来る。 偉大な作曲家だと、つくづく思います。 ベートーベンは、音の構成組み立てにおいて、天才だと思います。 ある部分にだけ突出した才能を発揮する人間でこれが天才です。 そうおもうと、ぼくなんて、くらべようもなく、おこがましいことです。 いろいろと興味を持って、やってきたことだけど、結局、モノにならない。 音楽という楽器演奏、文学という小説書き、写真という撮り手、というところ。 ここまできて、モノになっていなくて、こんな人たくさんいるんだろうな。 古希を迎えて、何をどのようにしていこうかと、迷うところです。 もう一度、何か作り上げられないか、との挑戦です。 でも、気持ちが高揚したり萎えたり、今日は萎えているところです。 もっとゆっくり、思うところを、書いていけばいいのではないか。 ここに、こうして、あれやこれやと言っていること、つまらないこと。 こころを落ち着けて、社会における自分の立場を、反省してみるといい。

つれづれに-5-

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アメリカの大統領にトランプ氏が選ばれたというニュース。 時代が変わる、たぶん、世界の枠組みが少し変わるんじゃないか。 べつにトランプ氏でなくても、世界構造なんて少しずつ変化していく。 そういうものだけど、保守が大半だから、極度の変化を嫌います。 国際政治の世界だけじゃなくて、日常の在り方も変わる。 自分が変わらないと思っても、生活のシステムが変わっていきます。 グローバル化する世界は、富の集中と貧富の差が大きくなる。 世界経済は、この方向にむかって加速していると思っています。 そういうことでいえばトランプ氏は、富を集中させてきた人かもしれない。 それらは大きな世界の問題で、小さな世界、自分の世界の問題は。 これですね、自分のまわりの問題、それが大きな問題をはらんでいる。 写真であれ文章であれ、表現の問題をとらえようとしています。 新しい学びの場を作るべく、枠組みを考えています。 総合文化研究、むくむく通信、学校、それらは2004年だから12年前。 フォトハウスは1984年だから34年前になるのか、と思う。 結局は自分が携わったことのアレンジだから、大体の枠組みはできる。 新しい技術環境、それにともなったスキル、なによりも表現する中身。 何よりも今を具現するカリキュラムでないといけないわけです。 写真は松尾大社前 2016.11.4

つれづれに-4-

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時代が変わるということが実感できます。 別のブログ、イオブログが来年3月で終了となるとの告知。 表面世界は、ずんずんと変わっていきます。 iPhoneからアンドロイドに乗り換えたが、そこはグーグルです。 グーグルの勢力が拡大してきて、ネットではここにお世話になる。 そういえばコンビニだって、セブン、ローソン、それにファミマですか。 使い勝手のよいカードが、セブンカードだと思えます。 セブンの店とガソリンを入れているが、重宝しています。 カードの時代になって、クレジットカードは使いたくない。 プリペイドカードというのでしょうか、先払いカードです。 電車はイコカカードを使って、ICカードですね、便利。 ひところでは考えられなかったような生活様式の変化です。 表層は、どんどんと変わっていって、生活の様式が変化します。 心のなかはどうなんだろう、やっぱり、変化していくんでしょうね。 カメラを持って、神社仏閣を訪問して、足跡を残していこうと思う。 おおよそ千年から千五百年前、後昔に設営された神社仏閣。 そこに我ら日本人の精神のルーツがあるのではないか、。 その精神性というものを感じられないか、と思ってみるところです。 写真は、蚕ノ社で撮影のもの、2016.10.29

つれづれに160402

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怨念というか、縁というか、人間の情にまつわる話です。 人と人との関係について、とくに恋愛というジャンルですが。 ここで気になることは、恋愛ということで括られる情の交感のことです。 写真は縁切り縁結びをうたう穴です。 あっちへくぐって行って縁を切り、こっちへくぐってきて縁結び、だとか。 なんかしら、人間の情という代物に、こってり感を抱いてしまいます。 きれいごとではなくて、けっこうどろどろした怨念が、横たわっています。 それをさらりとさりげなく、現代人はこなしていくんですね。 春になって、桜が咲くころです。 ここは安井金毘羅神社の名物、縁切り縁結びの場所です。 縁切りと縁結びは、神社にとっては商売繁盛といったところでしょう。 みんな幸せにならないといけないからね。

つれづれに160224

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モーツアルトってひとは、素晴らしい感性を持っていたんですね。いま、パソコンのなかで処理されたデジタルデーターが、スピーカーから流れ出てきていて、ぼくはうっとり、聴き惚れながら、思い立ってこのブログの、この画面をひろげて、ぼくの心情を書きあらわそうとしているところです。伝わらないな、ぼくの気持ち。言葉で、文字で書き起こしても、心情、気持ちってゆうのは伝わらない、異質のもののように思えています。ぼくは、この心情、気持ちを伝えるためには、どうすればいいんだろうか、と考えてしまうんです。いいえ、考えることじたいが、いけないんだよ、考えることではなくて、感じることではないか。 純粋理性批判なんて書物を書きあらわしたひとがカントという哲学者さん。理性のなかに間違いが生じる原因がある、と解釈すればいいのでしょうか。柄谷行人さんの倫理21という本を拾い読みしながら、なんとかぼく自身の理性を支えようとしている感じです。壊れていくような感覚、けっこう動物的な感覚なのかもしれない、無性に慟哭したくなる感覚。いまさらながら、倫理とか道徳とか、社会とか国家とか国民とか、そういった言葉を見て、読んで、つなぎ合わせて、頭の中でイメージの形にしていくことで、気分の安定を得ようとしている。と同時に、ひとつひとつと言語や認識の皮をめくっていって、文化とか歴史とか、そういった認識から抜け出て、感性だけになっていくことを試みたい。 身の回り、いまパソコンたる道具のまえに座っていて、目の前の棚には書物があってそれらは日本語で書かれてあって、すべてぼくの認識は、そういうことを認知することで成り立っているような気がします。目の前、壁面に取り付けてある三段の書棚の最上段、その左から世界の大思想(河出書房版)が捨てられないまま、いまだに並んでいて、そのなかのカント二冊を取り出してみました。純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判、カントってひとは批判ばっかりしているんですね。それと、永遠の平和のために、なんてタイトルがあります。これらは背表紙に刻印されていて、ぼくはその背表紙を見て書いています。箱に入った書籍そのものは取り出していません。なんだかカントなんて名前をだすと、ぼく自身が偉い人のように見えるんじゃないか。錯覚しないでほしい。 でも、たしかに、自尊心みたいなのがあって、見せかけだけなのに勉強したようなふりをして、張りぼての自分像をつくろうとしています。ほんとうは、その外にいて、そういった理論を捨て去って、ただただ動物的に、ありたいと思っていながら、そういうことを言っている文化を身にまとった人間なのです。自分なんて、国家や宗教や芸術や、もろもろの風土を身にまとったことを自覚して、人間はどうあるべきか、なんて議論に参加しようとしている。そのことじたい、捨て去ってしまうなんてできなくて、いやはや、捨て去ろうとすると寂寞感にさいなまれ、奈落の底に突き落とされてしまう感覚になるから、そこへは行けないな、と思いながら、死ぬときはその気分なのかもしれない、と思ったりして、ああ、逃れたい、逃れたい、反倫理、恥ずかしい自分を発見してしまう。

つれづれに160216

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この10年ほど、匿名で小説書きをしてきて、それなりに初期の目的も達成されたか、と。それらはぼく自身の、ネット時代の文学論の一環として書いてきたものでした。純文学ではない、大衆文学ではない、春画をもじって春小説、例えばプルーストのような。紀貫之がやったような、女性が春小説をかいていくことで、作家という人格を創ってみよう。そんなこんなで、春小説は、ポルノノベルといえる範疇で、リアルロマンノベルでした。にっかつロマンポルノ、その前にはパートカラー、いずれも映画館上映の映画群でした。 小説の分野だと、三島由紀夫とか吉行淳之介とか大江健三郎とか、とか、とか。ぼく自身としては、源氏物語、好色一代男、その末裔として、という意識がありました。永井荷風、谷崎潤一郎、そういった文豪たちの範疇から逸脱して、春画ではない春小説。ブログにて新聞小説よろしく連載ものでぶっつけ本番、構成なし、書き放題。なんどもブログを封鎖され、内容はともあれ、写真画像がやばかったのかも。まあ、コンビニの棚にも並んでいるじゃないですか、そのレベルのものです。 けっこうおもしろがって、勝手気ままに、文章を書いたと思っていますが、それらは18禁です。そうではなくて書いた「さくら協奏曲」とか「はなものがたり」、18禁じゃないからアクセス少なし。ネットの裏側に大量にあるアダルトサイトには全くリンクさせていないけど、アクセスはそれなりに。おもしろくて、アクセスが増えると、サイトがつぶされてしまうことが多々ありました。それは、ひとのこころのなかと、あからさまにリンクするから、アクセスが増えるのです。現代人のこころのなかを封じ込めることで、メディアは善良なるメディアとして存在するのです。 ほんとうは、もうちょっと具体的なはなしを書かないと、面白くないわけですが、そんなの書けない。そういう論は、この世には存在させてはいけない、不良メディア、不倫メディア、タブーメディア。でも、21世紀、世の中、面白くしていくのはストイックな現象に対して、エロごとし、春画、春写真。近ごろは、ネットでは、静止画ではなくて動画になってきて、ますます過激になってきています。美しいこの国のなかでは、そんなことは許されなくて、論外、論の外、話題にしてはいけない。社会という枠組みを、その外側から突いてみると、変革が起こる、なのでタブーなのです。

つれづれに160210

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今年70歳になる、なんて思うと、ただ事ではないという気持ちになる。 過去が膨大にありすぎて、未来が少ししかない、切羽詰まり感ですかね。 大きな壁にぶつかって、まるで防火扉みたいに重たい感覚です。 なのに女子を好きになってしまう感覚が衰えないんですね。 これ、この感覚は、この年になっての発見といってよいです。 いや、年になって、その年と世間でいう年相応とのギャップです。 からだが枯れることで精神がいっそう瑞々しくなるって感じです。 自分研究を試みているから、その感触をこうして言葉にしているのです。 小説家ならこれを物語に組み立てていくのでしょうが、ぼくにはできない。 構想力がない、構成力がない、物語として組み立てられない。 写真というイメージの集積においても、組み立てられない。 だから、べたな言葉で、べたな写真で、作っているわけです。 若い男の国会議員が、妻が出産入院とかしてる間に、別の女と居た。 こんなニュースが昨日今日マスコミ沙汰になっています、どうしたことか。 多情な男、男なんてそうかも知れない、一夫多妻制だってあったんだから。 情なんてものは、得体知れない本能です。 その本能を枠にはめてしまおうというのが規範ですけど、壊れますね。 いま、制度と性にまつわる欲求がせめぎあってきてますよね。 あの蓮如がかぶったという嫁脅しの面が吉崎に残っているんですね。 5年ほど前に見ました、蓮如って80数歳で女に妊娠させてる? ほんとかうそかしらないけれど、そんな話があるんですね。 それはまんざら嘘ではないかもしれない、70歳で精子が作られる。 若い時と比べたら極端に少ない量ですが、たぶん無精子ではない。 精子がたまると性的欲求が強くなる、これって男の本能なんでしょうかね。

つれづれに160119

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タイトルに日付をいれることにしました。 写真は、なか卯の朝ご飯セット、250円です。 今年になって2回も食べに生きました。 朝食だから、朝です。 ひところ200円だったのに、値上がりしたんです250円に。 目玉焼きとわかめの味噌汁、それに味付けのりがついています。 この日は、サービス券で小うどんがついてきました。 一人暮らしの練習、なんて笑い事ではなくて、そうなるかも知れぬ。 どうして生きたらいいのか、わからなくなってきます。 初々しい気持ちなんてもうなくなって、それなりに老年の気持ちだ。 音楽を聴いています。 ぼくが聴くのはだいたいクラシック音楽です。 別に高尚なわけではなくて、聴き慣れて親しんだからです。 オーディオ機器にはこだわりません、目の前にあるものでよい。 パソコンを新しいのにして、スピーカーを別に買いました。 欲をいえばきりがないですが、これで十分に聴けています。 こころを休める、癒やされる、もちろんそうゆうことですけど。 そればかりじゃないですね、人生の味を味わいます。 どんな味なんや?なんていわれても、それはぼくの味です。 だいたい悲哀の中に生きてきたように感じています。 生きていて辛いとは思いませんが、気持ちが落ち込むんです。 病気の類に入るのかも知れませんが、医者の診断は受けません。 情緒的で芸術家向き、なんて勝手に思っているだけで、スキルがない。 小説にしても賞をとるほどのものではないし、写真とて同じです。 ちょっと足らんのですよ、なにもかも、突出したものがない。 つまらない人生だった、とは思いたくないけど、そう思うこともある。 あと10年とか20年とか、動けるままに作品らしきモノ、作っていきたい。 たわけめ!

つれづれに-6-

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五輪真弓、いま、スピーカーからその歌声が流れてきています。 なつかしい、なんだろ? よく聴いた、1980年ごろ、まだレコードでした。 30年ぶり、一気に記憶がその時代へ、引き戻されます。 朝に、稲垣さんから電話があって、福島みずほさんが釜へ来る。 来るから写真取材できないか、との話があって、躊躇したが行くことに。 写真の講座の方は、けっきょく、今日、明日と立ち会いをあきらめた。 釜ヶ崎は一方で越冬闘争期間で、フェースブックに記事が載っています。 稲垣さんレベルは、そことは違って、別のグループだから、ぼくは参加しない。 こころが萎えます、こころが落ち込みます。 2016年の幕があいたが、このあとどうしようかと、思案します。 メールの返信も今後ないというメールに、別れの時が来たと思う。 そのときに五輪真弓の曲が、ぼくの耳にはいってきて、こころ救われる。 忘却、忘れ去る、そうして、あたらしい時代がはじまって、そこで暮らします。 春が来る、残り火、聴き慣れた声とメロディーです。 池田氏がゆずってくれたCDからのデジタルデーターです。 CD700枚以上、一テラバイトの大量のデーターから、です。 クラシックが主だけど、同時代に生きた池田氏、何度か話をしています。 こうして、ここにいて、文章を書いていると、こころが少し落ちついてきます。 今朝は、おおきショックで、立ち直れないかと思うほどの落ち込みでした。 悲しくて、苦しくて、辛い気持ちが、あのときも、ありました。 五輪真弓を聴いて、過ごした、日々、30年以上も前のことです。 みゆき、中島みゆき、五輪真弓のあとに聴き出した中島みゆきもあります。 みゆきさん、もう、お別れ、おしまい、そうしよう、それがいい、そうしましょう。

つれづれに-5-

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新年、あけましておめでとうございます。 という挨拶を、誰にするというのか、あまり挨拶しませんね。 ここら辺、ブログの書き出しに使ったり、慣用語ですね。 ハイドンの交響曲をかけ出しました、珍しいでしょ? いつもはベートーベンの交響曲が多いけど、たまに違うの聴きます。 チャイコフスキーの交響曲を少し聴いて、ハイドンへやってきた。 最近はオーケストラ演奏の音楽を聴くことがが多いです。 ひところはピアノの曲も重くて、繊細なバイオリンに傾斜していたけど。 変わるんですね、その時々の体調ってゆうか、心のあり方に由来してる? 元旦、朝から、平野神社、椿寺、北野天満宮と巡ってきました。 朝食には白梅町でなか卯の卵焼き朝食をとりました。 いささか旅行気分というところですね、ぼくの気持ち。 昨年の出来事が、もう遠くへ行く感じにしたいと思っています。 夏頃から、恋をして、深みにはまってしまって、錯乱してしまいました。 なにもできなくて、文章も書けなかった、写真も撮れなかった、言葉を失った。 でも、ゆるやかに、それらの感覚が戻ってきているようにも思えます。 また、小説仕立ての文章を書こうか、とも思うところです。 今年70歳になる、老人だ、からだは老体、きもちは瑞瑞しく、です。

つれづれに-4-

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大晦日になりました、暖かい日、晴れています。 朝から、ピアノの周りを掃除しているところです。 手を動かしていると、頭の中は別のことを考えています。 もう半世紀以上も前になるのか、高校一年生の時の大晦日。 なんだったんでしょうね、自転車に乗って、夜の道を走っていました。 ゆっくり、ゆっくり、太秦とか嵐山の近くとか、高校が嵯峨野。 好きな女子がいて、それは帷子ノ辻近くのうどん屋の子でした。 たぶん、会いたくて、その近くへ行っていたように思う。 そのときの気持ちが、よみがえってきます。 むなしいようなさみしいような、いる場所がない感覚です。 その気持ちが、今もあって、記憶を思い起こさせたのかもしれない。 なんかわびしい人生送ってるなぁ、と思ってしまう。 釜ヶ崎へ通った、わけわからない世界へ足突っ込んだ。 恋をした、永遠のイメージを求めてしまうプラトニックラブです。 これがいま、起こっている、起こっていた、いまは退きつつある。 大晦日に、思うこと、いろいろあるけど、成り行き任せにしよう。 まあ、成り行き任せとはいいつつも、我が意思に従うだけだけど。 2015年の大晦日、10:11です、掃除を再開します。

つれづれに-3-

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年末になりました、今日は25日、クリスマス、それに天神さんの日。 もたもたと、家の中で、過ごしています。 音楽は、ただいまベートーベンの運命、第五番です。 聴き慣れた、懐かしい、10代の頃のことがよみがえります。 メールを送り返そうか、どうしょうか、迷っているところです。 今年は、いろいろ、変化があった年でした。 そのなかでも、いちばん気になったことは、これは書けない。 写真のテーマが、変わってきています、京都は終わった。 その次が出てこないけれど、もう終わったと思っています。 小説や文章を書いてきたが、これも終わった。 パソコン環境を変えました。 最新のバージョンにして、iPhoneを使い出しました。 写真を撮ることにしか使っていませんが、有料カメラだと思って。 ネットを介在させて、を写真を発表しています。 どうなることやら、わからないけれど、現在進行形です。 刹那の記録、とでもいえばいいのでしょうか、臨場感を求めます。 移動するカメラ目線、とでもいえばいいのか、ただし移動範囲は狭いけど。 ぼくの場合は狭いけど、人によっては地球規模で行動できて、痕跡記録です。 朝から、自宅周辺で何枚か撮りました。

つれづれに-2-

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パソコン環境を新しくしています。 もう5年前に入れたパソコンを最新にするためです。 それからアイフォンを購入して使っています。 なんだか、道具類を最新にするだけで、自分が変わる。 iPhoneを掌にして電車のなかで写真を撮って、SNSにアップ。 そのライブ感に、新しい時代を感じます。 ちょうどいい機会でした。 アルバムもニコン、キャノンから、グーグルとかに変えています。 iPhoneのカメラから、色変換したり、サイズ変換したりで、作品作りです。 模索中、なにはなんだかわからない、けど、まあまあ、楽しんでる。 もう、年末、12月13日、日曜日です。

つれづれに-1-

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金沢の奥の二俣というところに「いわな茶屋」という料理屋があります。 山の魚イワナを養殖されていて、それを料理して食べさせてもらえる。 もう20年以上も前に、とおちゃんに連れていってもらって以来、行きました。 以前は小屋茶屋というイメージでしたが、立派な造りになっていました。 最初にイワナの刺身が大皿に並べられて出てきました。 海の魚に慣れたひとは、川魚は苦手というひとが多いようです。 でも、ぼくは、泥臭くっても、それがいい、苦にならない。 まあ、なんでも食べる、好き嫌いはあまりないです。 イワナの刺身、イワナのからあげ、イワナのてんぷら。 それに山菜の炊いたん、てんぷらにしたん、味噌にしたん。 いまどきの人気メニュー、かなり高級感あふれた、手料理です。
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この日は、とおちゃんの17回忌、連れ添いさんの17回忌、その会席でした。 法要は、本泉寺の住職さん、若いころから見てるおひと、白髪になって。 浄土真宗で、わかいころは慣れなかったけれど、最近は、慣れた。 宗教心があるのかと問えば、それは不本意ながら、ないと答えなければ。 でも、70になる自分、宗教心とはいわないが、それみたいな心境があります。 目の前、自分の外の光景を、なにを見ても、うっとり、といった感じです。 それとともに、なつかしい、うつくしい、そんな感覚が生じてきます。 あの世にいったりこの世にいたり、なんかしら夢想のなかに生きてる感じ。 年齢とともに、浮世から遠ざかる、たしかにそうかもしれない、とは思う。 たぶん、若い年代の人たちとは、別の領域を生きているのかも知れない。 今年の後半、おおきな変化が自分のなかに起こって、戸惑ったところです。