自分史-13-

_20200508_210135.jpg

ほんとうはブックカバーチャレンジの最初の一冊なのですが、ここでは2回目のされどわれらが日々ーから連載したので、あらためてこの万葉集を載せます。万葉集についての知識がそれほどあるわけではありません。文章を書こうとおもって、いま、パソコンの前にいますが、言葉がでてきません。ウイキペディアで検索しながら、コピペしていけば文章になるとは思うけど、なるべくそれはしたくなくて、自分の知識で文章にしていきたいと思うのです。

すでに手元には、写真や現代美術関連の書籍はほとんどありません。このまえにはギャラリー176とそのビルに企画されているギャラリーのために持って行ってもらいました。あと文学関係で、ぼくの勉強のかなり前に手元に置いた資料としての本が残っています。それと2000年前後に読み漁った小説やらの文庫本、新書本、それらの一部が残っているだけです。太宰治全集と堀辰雄全集は手元にあります。漱石全集、谷崎全集、アートワークスなどは、メディア図書館へ持って行っています。ここで、これからは資料なしのまま、駄文をつらねていこうと思っています。

大島貴代さんから引き継ぎのブックカバーチャレンジの一回目は万葉集にしました。高校時代に伊藤博先生がいらした。万葉集研究の先生で文芸部の顧問でした。この本は当時に買ったもの1963年。昨年、令和の年号が万葉集のなかにあるとゆうので、探して、見つけて、驚きました。あまり万葉集は深く読んではいません。現在ぼくの手元にある文庫本では一番古い本かも、文庫本の詩集などはもう廃棄してしまいましたから。でもこれは残っていました。今いる自分に影響している本をあと6冊選んでいきます。よろしくです。

自分史-12-

_20200511_100124.jpg
<湖の伝説>
主婦で画家で子育てしていた三橋節子さんに癌宣告。右腕の切断を余儀なくされ左手で絵を描く。思うだけで壮絶な気配を感じます。物語は、梅原猛さんが評論として三橋節子という画家を描き出されます。1977年、本が手元に届いたのは翌年、達栄作さんから、妻あてに寄贈していただいた本です。それらの日々から40数年が立った今です。ぼくは釜ヶ崎へ行きだしたときでしたし、恩師として崇める写真家の達栄作さんとの議論から独り立ちしていく時期でもあるし、さまざまなことが交錯してくる現在です。

ブックカバーチャレンジの七日目は、湖の伝説、1977年発行の1冊です。大津在住の日本画家、三橋節子さんが若くして、子供を残して、癌で亡くなられます。その三橋さんを梅原猛さんが評論します。表現者の執念を悲痛なまでに感じます。作品が滋賀県立近代美術館で保存、展示されているのを見ました。感動を受けたのはやっぱり表現者の執念です。また梅原猛さんは立命館の先生もしておられて、その著作は、その後たくさん読ませていただきました。ぼくは古代イメージを抱かせてもらいます。それからブックカバーチャレンジの最後です、誰かこの後を引き継いでくださいね、よろしくお願いいたします、ありがとうございました。

自分史-11-

_20200513_165428.JPG
<黒い雨>
井伏鱒二さんの小説。昭和41年10月発行、広島原爆投下のときの惨事を扱った小説で、ぼくは発行されたそのとき読みました。ぼくの年齢としては二十歳で、高校を卒業して勤めていた十字屋楽器店の二年目になる年です。この年の年末で十字屋楽器店を退職して浪人生活にはいります。音楽家のなる気持ちから、小説家になりたいと思う気持ちのほうが勝ってきた時期でした。退職するときに作家になると言ったら笑われた、いまでも思い出しますね、職場でえらいさんが、笑ってた。小説を読んでいました。むさぼり読んだという記憶はありませんが、けっこう同時代の作家の小説を読んでいた記憶はあります。

ブックカバーチャレンジ六回目は井伏鱒二さんの黒い雨。1966年発行、内容は広島に原爆が落とされた惨事が書かれています。ぼくは二十歳で社会状況にのめり込んでいく年代で、感動を受けた小説でした。当時読んでいた小説に、戦争を背景にしたものが多いのですが、原爆を扱った小説ははじめてでした。社会派小説、全体小説を目指していたぼくには、小説としての構成の仕方とか、感化されたものです。自分の思考と行動のルーツをたどっていくと、表向き硬派な表現をめざした正義みたいなものを、時代に後押しされていた気がします。

自分史-10-

_20200511_100238.jpg
<春の雪>
三島由紀夫という作家のことは、ぼくはあまり触れてきませんでしたが、フックカバーチャレンジのシリーズにこの「春の雪」を加えることにしたのです。写真集「薔薇刑」を中古本で買ったのは1980年代になってからでしたが、小説「豊饒の海」三部作のうちの第一部「春の雪」を発行当初から手元に置いてあります。ほかの作家の書下ろし小説とか、われらの文学とか、いま、その当時に揃えて、読んでいた単行本は、もう手元にありません。何冊か、捨てられずに残っている、残滓ってゆうんだと思っているけど、残りカスです。でも、手元に残っているというのは偶然もあるけど、捨てられなかったということにほかなりません。

昭和44年1月発行、話題の書だったから手に入れたと思うのですが、この年のその頃は、街頭に赴いて行動のときでしたから、本を読むことは気持ちが浮いていてできません。この本「春の雪」は読めていません。前年の秋に出版社「有信堂」に職を得て、京都百万遍に社屋があって、そのに勤務していて、この年のこの時期に起こった京都での出来事を目の前にしていました。京大北門から農学部正門の間の今出川通りがバリケード封鎖されるという現場に居合わせたのです。警察機動隊が大学構内へ入ってきた最初の道路封鎖は、火炎瓶が投げられ黒煙とともに炎上する光景でした。この光景を見ながら、3月、東京勤務としてもらい、この年の10月21日、国際反戦デーのときまで、東京は本郷のアパートにに住んだのでした。

ブックカバーチャレンジ五回目は三島由紀夫の春の雪。1969年発行ですが、この1冊が手元にあります。ぼくにとっても激動の年で心穏やかではありませんでした。盾の会の行動はよく報道されていたし、この年の春にぼくは東京へ赴きました。三島の本は当時には読みきれていません。耽美な三島を読み出したのはもう50才を越えてからでした。豊饒の海三部作の第一部、ひとつの時代の象徴でしょうね。死んでから半世紀経って意味を持ってきた作者と作品かと思いますね。この先日本どこへいくのかです。

自分史-9-

_20200511_100540.jpg
<厳粛な綱渡り>
大江健三郎というひとが小説を発表している、エッセイ集が書店に並んだ。高校生のときというより十字屋楽器店の技術部に就職して、エレクトーンの調整や修理を習っていたころだと思っています。音楽と文学に興味が向いていて、音大に行こうと思ってピアノを習いだし、友だちからの影響もあって、小説を読みだして、堀辰雄やアポリネールやから太宰治を読むようになって、文学かぶれになっていく年頃でした。すでにそのころには大江健三郎さんは、時代の旗手のような立場、開高健とか、高橋和巳とか、音大は無理なので大学では文学を勉強しようと思って、十字屋楽器店を二年で辞め、一年浪人して大学へ、立命館の二部文学部にかろうじて合格でしました。

文学活動をするのは大学にはいってからで、1968年に入学し、学友会公認のクラブ、文芸サークルに入って、小説を書いて発表したところですが、そのサークル誌は現在手元にありません。学生運動が盛んになりだした時で、全学共闘会議とか、クラスの闘争委員会とか、なにやら大きな波が起こってきて、ぼくも翻弄されていくことになります。三年遅れで大学生になったぼくは、三年年下の人らと経験を共有します。ぼくは働いて稼がないと生活できない環境だったから、いくつかの仕事を経て、出版社に職をえて、1969年の春先に、東京へいくことになりました。東京は憧れで、小説家デビューするのには東京在住でなければならない、見たいな思いがあって、上京っていうんですね、上京しました。

1969年初め、京都での一連の機動隊との衝突にたちあい、東大全共闘が安田講堂占拠して陥落したときは京都でした。本郷の正門と赤門の間の前にあった出版社で、営業見習いみたいな立場で、取次店への配本とか、返品されてきた本を磨いて再配する作業とか、小説を書くどころか、そういう時間も作れないままに、夏から秋を迎えました。上京した当時、安田講堂前には投げられた石が散乱していたし、ガス銃のあのガスの匂いがぷんぷん残っていました。そういうことを目の当たりにして、中央にいる、という意識の中で、22歳から23歳を過ごしたのです。10月21日は国際反戦デーで夜にはべ平連のデモに参加しましたが、そのときには京都へ帰る気持ちでした。

自分史-8-

_20200508_092343.jpg
<わが解体>
高橋和巳という小説家、いやエッセイスト、大学教員、中国文学者、いろいろな側面を持った秀才だったと思う。ぼくが高校生の頃にはアサヒジャーナルだったかも知れない、小説を連載されていた「邪宗門」の記憶がよみがえってきます。鳴滝に住まわれいた楠見七郎くんの部屋で、その小説を読んだというより見た記憶があります。高橋和巳を知るのは、いつだったろうか、大学へ入ったころかも知れない、1968年。ここにある「わが解体」は、彼の最後の著書で、発売を見ないで死んでいったのではなかったか。

その頃は京都大学文学部の助教授職にあって、学生運動の真っ只中、学生側か大学側かで、本人自身が揺れ動いていたように見受けられます。ぼくが入った立命館でも講師をしていたといい、作家としては近い関係で親密におもっていたけれど、お目にかかる機会はなかった。その当時、京都には高橋和巳氏がいて、文学同人誌「バイキング」の同人で小松左京氏なんかといっしょだったと聞いた。ぼくは憧れていたけれど、同人雑誌に参加したことはなかった。いいえ、関西文学という同人誌があって、そこの会員に登録したけれど、例会に参加するほど近くはなかった。

高校卒業して三年遅れの1968年、立命館に入学したぼくは、1969年休学して東京の出版社に勤めた。20.21を終えて、京都に戻ってきて、1970年に結婚、大学に復学、1971年に長女が生まれた。その生まれたという日、8月5日に買い求めたのが「わが解体」でした。見開きに記念の詩句を書いていて、読み返してみると、なんと力んでいたことかろ思うのです。1971年というのは、もう学生運動が表からは衰退していった時期で、その思いは内にこもっていました。三島が自決し川端が自死したころではなかったか。ぼくは郵便局の窓口事務員になっていて、惨めな気持ちにあふれていたけれど、どうしようもなかった。

自分史-7-

_20200508_091956.jpg
<小説、されどわれらが日々ー>
ひょんなきっかけで、昔読んだ本をリストアップして、それに文をつけることになりました。そこで、人生を経てきた自分が影響を受けたと思われ、なお文章も書いて、残しておきたいと思うので、ここに残すことにしました。このブログにて書いている自分史の続きで、アトランダムに載せていきます。

これ、されどわれらが日々ー、柴田翔さんの小説、1964年の夏は、ぼくが高校三年生でした。書店で芥川賞作品が掲載されている文芸春秋を買いました。文学に興味を持っていて、たぶん、そういうことから買ってみたんだと思います。夏の日、暑い日、汗をかきながら読んでいた光景を思い浮かべます。いっきに読みました。六全協って、詳しいことはあとで知ることになりますが、方向転換する共産党のことが背景にあり、そのなかにいた学生たちの群像を描いたみたいな小説なのです。

もう18歳になっていましたし、大学受験をあきらめて、就職することにしていた夏休みで、この本一冊に出会って、ぼくにおおきな変化が起きたと思っています。愛と死を見つめて、という交換日記みたいな実録がベストセラーになっていて、それも読みましたが、この、されどわれらが日々ー、この小説から受けたショックは、相当なものだったと思っています。佐野という学生、優子という学生、この二人が自死します。それぞれの遺書が載せられていて、それをめぐって語り手のわたしと恋人らしい節子との物語になります。

ぼくが現在進行形の日々に、小説をリアルタイムで読んだ初めての小説です。ぼくの読書歴でいえば、それまでは、内外の名作を読んでいたし、詩集を読んでいたし、それに高校二年のときには詩を書いて詩集を発行した自分がいて、そういう文学経験のなかで、おおきな転換点となった小説でした。自分の人生でいえば、大人になっていく入口だったように思えます。小説を書こうと思いだし、小説家になろうと思うのもこのあたりからで、音楽家か小説家か、みたいな漠然とした将来を思い描いたころだったと思います。