自分史-19-

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<漱石とその時代>
文豪と呼ばれる夏目漱石を研究する、といったら文学研究する若者にとって、1960年代後半の当時においてはまっとうな研究課題であったように思えます。小宮豊隆とか、漱石研究者がおられたようですが、ぼくが触れたのは江藤淳さんの評論というか研究です。ゼミで専攻した作家は森鴎外でしたし、卒論にあたるレポートは私小説論でしたから、漱石は、傍らで読んだ程度です。でも、日本近代文学で、漱石という特別な位置にいる漱石を垣間見たことは、よかったと現在においても思うところでした。

大学教授で教鞭をとる漱石にたいして軍医である森鴎外。ぼくは、この二人の作家の素性を知ることになって、その対比で、ぼくは漱石に軍配をあげました。職を捨てて文学の道に入る漱石、軍医のままで生涯をおえる鴎外、この差について、ぼくが公務員を辞して写真の道に踏み出すとき、漱石の生きざまが、そばにあったのです。漱石の文学の「則天去私」とか、近代文学の枠組みとか、文学とは、等々の基本的な枠組みは、漱石さんからいただいたと思うところです。
(続く)

つれづれに-11-

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YO-YOMAさんのチェロ組曲を聴いています。
バッハの作曲による組曲で心打たれます。
きしなかさんがリンクされていて、コメントを交わしたところです。
もう、お昼前になってきて、このあとの時間、どうしようかと思っています。
ここでは自分史を構成させているところで、読んだ本と自分の過去をリンク。
自分史の区切り区切り、短文で刹那をつないで、自分を懐かしむ、ですね。

音楽は、中学生になってブラスバンドに入ったのが契機になります。
でも、音感というか、けっこう性に合っていたというか、感じたんでしょうね。
当時のポップも聴きましたが、クラシックに傾斜していったのも事実です。
音楽家になりたいと思った十代の後半、でも無理だとわかって文学へ傾斜です。
なんか、芸術系のことばっかり興味で、社会人としての金儲けは、考えられません。
けっきょく、好きなことばっかりやてきた人生やなぁ、と音楽聞きながら思っている。


自分史-18-

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<日本語はどういう言語か>
学園紛争が終わっていって、デモすることが醒めていって、それにかかわった学生たちは行き場を失った、いやいや、どうしたらいいのか、わからないまま路頭に迷う、そういう時期でした。三浦つとむさんの書き現わした「日本語はどういう言語か」を使って、読書会なるものが開催され参加した。非常に読みやすい表記で、この本の背後に、言語過程説なる言語学というか国語学の理論があるのでした。ぼくは、この本を紹介してくれた友達、甲斐くんに、感謝しなければならないと思います。

ぼくの言葉を駆使して文学するという理解の背景には、言語過程説の理論が網目のように張り巡っていて、それを根拠に言葉を紡ぎだしていると思っています。明確な、これだ、という核心的な言葉は見当たりませんが、文章と作中の位置関係とか、時空の位置関係とか、とくにフィクションを書くときには、コミュニケーションのあり方を想定して、書き進めています。橋本進吉著:国語学概論、時枝誠記著:国語学言論、それを受けて三浦つとむさんは、日本語の構造をわかりやすく解き明かしておられる。

影響を受けたといえば、言葉を操ることをやってきて、吉本隆明さんの著作本の、表面を撫ぜながら読んで、全体の入り口というか表面を知ったつもりで、言葉に出したりしている自分がいます。1971年に発行された「日本語はどういう言語か」を、書架から取り出してきて、いまぱらぱらとページをめくりながら、上滑りしてきた自分の人生を振り返るところです。自分とは何か、この問題に行きあたったのも、言語過程説が引いてくれたのかも知れません。理論書、言語学、国語学、その後にはソシュールとかの本も、表面を撫ぜたけれど、記憶には、この本「日本語はどういう言語か」が残っています。

自分史-17-

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<太宰治>
太宰治の小説を読んでいるということを、他者には言えない恥ずかし味のような感情がありました。それは太宰が書いていた心情に同化していたからかも知れません。漱石を読んでる、とか藤村とか、なんか胸張って、読んでるよ、なんていう態度ではなくて、こそこそと読んでいる、という感情だったように思う。たとえば中島みゆきのファンだというには、やっぱり恥ずかしさがつきまとったみたいな、同化してしまう人のことは人に言えない。ひそかにエロ雑誌をみたり、エロ映画館へいっていたり、そういう隠す感情と同質なのかも知れません。

「斜陽」の直治遺書には、もうメロメロに陶酔するほどに共感したし、お姉さんのイメージにもいたく感動しました。会いに行って、不在でおうどんを食べながら待った、という光景がいまも思い出されますが、わびしい、しんしんとわびしさが伝わて来て、涙してしまうほどでした。ここだったか人間失格だったか、作中に西方のお家という地名があって、東京の本郷の東大の近くに西方という住所地があって、そこに勤めていた出版社の社長の自宅があって、西方、という場所で、太宰治を想ったことを思い出します。

桜桃忌には行ったことありませんし、津軽へも行ったことはありません。絶大なる人気者の太宰が、別の女と情死したとの情報で、増水する玉川上水で溺死した、なんてことを想像して、その死ぬ瞬間のことを想像して、戦慄してしまう自分がありました。もう5年ほど前か、調べ物をしていて、太宰の死体が引き上げられて、むしろがかぶされている現場の写真を見たとき、なにか、もう、なまなましい、というかそういう感情になりました。今年1月末、むかいの同期生の女子がお風呂で亡くなっていて、その遺体は布に包まれ運ばれるのを見て、太宰を思い起こしました。

自分史-16-

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<廃市・告別>
福永武彦さんの全集のなかの一冊です。昭和49年4月23日購入の日付を入れている記念の一冊です。この本の発行日は4月20日、立命館の生協の書店で買ったもの、記憶がよみがえってきます。福永武彦さんの小説は、やっぱり冴えた美しさイメージで、多くは読んでいませんが、好きな作家でした。この日は次女の誕生の知らせを受けた日の帰りに買ったようです。見開きに記念の日付とメッセージを書いています。父28歳と書いています、まだ大学生の身分で、郵政省の事務員、郵便局の貯金窓口職員でした。小説を書きたい、書かなくては、と思う日々でしたが、もう書けなかった日々でした。カメラを買った、最初のモノクロ写真は、この次女がお座りしている写真ですから、昭和50年、1975年だろうと推定します。

立命館の学舎は府立医大前の広小路、京都御所に近い場所で、本館が研心館、正門から左にわだつみ像があって、そこが間口が広い入口でした。小学生の3年か4年の頃、母がここの地下の理髪店で仕事をしていたので、休みの日には、連れられていって、この界隈で遊んでいました。書店はその理髪店の斜め向かいだったと記憶しています。衣類を売る店があり、喫茶店があり学生食堂がありました。現在、衣笠に学舎が移っていますが、研心館とか清心館の校舎がありますね。衣笠には末川先生の記念館があり、中川会館もありますね。もう半世紀前のことですが、こうして書いていると、次から次へと記憶がよみがえってきます。

福永武彦さんの全集から一冊を記念に買って、2020年のいまも書棚に残されている一冊です。1979年8月に、ぼくは釜ヶ崎の三角公園で写真展を実行したのですが、このとき朝日新聞の記者さんが記事にしてくれて、12段ぶち抜き記事で夕刊社会面に紹介されたのです。その同じ紙面、ぼくの記事の横に、たぶん四段記事だったかと思うのですが、作家福永武彦さんの死亡記事が載りました。この話は、今の今まで秘めておりましたが、ぼくのデビューと作家の死がクロスしたと思っています。インディペンデントな写真活動を始めていく最初ですが、既存の写真グループは冷淡でした。

自分史-15-

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<我が心は石にあらず>
昭和49年発行の版なので、1974年に読んだのかもしれません。見開きに大学の論文用原稿用紙が一枚、書きかけのままのが挟まれていて、山岸会のチラシが四つ折りで挟まれております。家族の新生活がはじまって4年目、次女が生まれる年、まだ大学二通っていた日々。同期生は卒業していたし、まだ大学に残っていた二人とともに読書会を始めたころだったかも知れません。読書会の研究作家は漱石で、当時は文学の基礎というところでは夏目漱石だったのかもしれません。漱石論がいくつもあって、江藤淳さんの漱石論が目の前にあって、でもそれはなかなか読みこなせなくて、ぼくらの実力の程度を知るだけでした。

我が心は石にあらず、読みやすかったせいか、何度か読み返しました。されどわれらが日々ーも何度も読みましたが、この我が心は一冊は、すでに公務員という身分で働き、家族を養っている自分と境遇が似ている、と思っていたのかも知れません。いつ崩壊していくかわからない自意識に、おそれながらの日々を送っていて、夜な夜な原稿用紙に向かっていたものでした。文学を研究会で語り合い、気持ちが緩んでしまった日々でした。内心、どうしたらいいのか、自立していくには、どうしたらいいのか、家族との日々に戸惑いながら、本を読んでいました。太宰治を読んでいたのは、これらの前で、すでに過去となっていたように思います。

いま、思い出しているんですが、その当時1974年ごろ、小説を書いていた記憶がよみがえってきます。短編でしたが文学賞に応募した記憶があります。コクヨの原稿用紙に万年筆で書いては推敲し、書き直ししていました。でも、次第に書くこと自体が進まなくなります。ニコマートのカメラを買ったのは、その当時ですが、それは写真家になろうとかの目論見は全くなくて、カメラ屋さんに勧められたからです。家族をもったらカメラを持って写真を撮る、これですね、8ミリでマガジンポン、動画はやりませんでした。最近、スキャンして、当時のフィルムをデジタルに変換して、ブログに掲載しているのもあります、もう半世紀まえの出来事です。



自分史-14-

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1965年初版発行1966年2月四版のものを買ったようです。ようです、というのは買った時の記憶がはっきりしないからです。1965年は高校を卒業した年で、三条新京極角の十字屋楽器店に勤めだした年で、お金をもらえるようになったから、レコードと本をたくさん買いだした時でした。十字屋の前に、リプトンがあって、本屋さんがあって、その本屋さんで本を買っておりました。それから取次店へいけば卸値で買えたから、全集もんなんかは取次店(日販だったか)で購入しておりました。ええ、これは「憂鬱なる党派」高橋和巳の書下ろし長編小説で、読みましたよ。内容は、学生のころの政治論みたいは内容だったかと思うのだけど、内容がわからなかった。けれども読み終え、再読はしていません。

主人公の西村が、教員をやめて広島原爆被災者の体験を聞き取り、原稿用紙にまとめた、という話になって、出版するべく出版社を訪ねるのですが、ことごとく断られる、この原稿用紙を包んだ風呂敷を持ったまま、釜ヶ崎の住人となっていく、という筋書きだった記憶があります。もし書き間違いのところがあったら、読まれた方、教えてください。この最後のほうの、西村の行方ですが、小説家には、または小説には、破滅型ってゆうのがあって、これは破滅型小説になるかと思います。ぼくの当時でいえば、太宰治を読み始めた時だったし、この破滅型にはまり込んでいきました。なぜ、ここで「憂鬱なる党派」をとりあげているかということを、次に書きます。

釜ヶ崎へ行こうと思って行くのは1978年9月のことでした。その頃に、鮮明に思い出されてきたのが、憂鬱なる党派の西村のことでした。ドヤで死んでしまったあとに残された原稿用紙で、紙飛行機を作って飛ばして遊ぶ子供の風景があった、この現場、釜ヶ崎、そこに来ているんだ、という自意識がありました。1966年から1970年までの、学生運動のながれは、いまでも語られることがありますが、その時代の中にいて、終わって、10年が経って、1979年夏、釜ヶ崎に写真取材し、文章を書き、していたことを思いだします。もう40年も前の出来事で、時代とともに釜ヶ崎のありようも、文学や小説のありようも、変化してきたと思えますが、自分史に書き加えておこうと思います。