自分史-26-

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<民間伝承論>
柳田国男さんが書かれた民間伝承論が一冊の本となっていて、この本の奥付をみると1980年発行になっています。それよりも以前に「遠野物語」を学生だった頃にざっと読んでいて、それから10年後あたりに写真記録の方法を考えていたとき、この民間伝承論の存在を知りました。採取の方法というか記録の集め方というか、1980年当時では、ぼくが写真を撮る根拠を、探し出したいと思っていたところでした。そこの住民が、そこの記録をなすことが、一番の記録だ、という話だと教えられたと思います。深読みしたわけでもなく、柳田国男さんんを研究した輩でもないから、表面的なことしか論じられないのですが。

まあ、知っているというだけで、深い処は知らなくて、もう半世紀も前に読んだ本の内容を、明確に覚えているかといえば、決して明確には覚えていなくて、でも、自分を語る場合に、自分の外にあるモノを引き合いに出して、自分を描いていく。こんな方法をとっているわけです。ぼくは研究家ではなくて、自分が触れてきたことの、それを材料として語ることで、自分のなかに自分をとらえるという作業をしているのです。柳田国男さんが記録、採取をおこなって定着させる方法として、このばあいは民俗学の成果として採取記録を残す、その方法などを考えられた結果として民間伝承論にまとまった。これをぼくが読んだ、引用させていただいた、ということでしょうか。

自分っていったい何者なんだろう、この問いが、世間ではいつごろから意識しだされたテーマなのだろうか。ぼく自身でいうと、この問題は、問題として考えるようになるのは1970年前後、二十歳を越えたあたりだったかと思います。それ以来、ことあるごとに、自分とは何者なのか、と問うてきたと思うんです。エッチなことする、仕事の中で管理者の立場に立つ、公私いろいろあるそれの総合としての自分。いま、ここで、こんなことを書いている、思考していることじたい、何をしてるんだろうと思っているわけで、ぐるぐる回る、風車みたいな、いや螺旋階段を上ったり下りたりみたいなことで、生き様を晒しているわけです。わけわからん、といいたいところですね。

自分史-25-

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<堕落論>
坂口安吾というひとは、無頼派なんて言われていた作家のひとりですね。太宰治、織田作之助、坂口安吾、第二次大戦敗戦後の世相を反映しているとでもいうのでしょうか。やぶれかぶれ、デカダン、酒、女、遊んで遊んで、みたいなイメージでぼくをとらえてきます。二十歳を過ぎたばかりの大人というよりも、まだ青臭い遅れて行った青年だったころです。もう、全共闘の運動が終わっていって、世の中、静かになってきたあたりで、読書会しようか、なんて運動にやぶれ、生き残った数人があつまって、アパートの一室で、ちまちま、文学のことを語ろうとして語れなかった記憶がよみがえります。

坂口安吾、1906年、明治39年に生まれる、とあります。太宰治、織田作之助、文章書きの先輩って感じで、すごい人、というより先輩って感じで、でも大江さんや高橋さんとか開高さんほどには身近ではなくて、身近だけれど遠い人、みたいな距離感で、ぼくの前に生きていた人たちを眺めていては、ぼくも作家になりたい、なろう、と思っていたものでした。でも、人前で、そういうことを言えたのは少しだけで、もう結婚して子供が生まれてきたりして、でも、まだ、内心は作家になりたい、と思っていたけれど、もういいいや、と思ったときには、むなしかったですね。そんなころ一眼レフカメラを買った。

21世紀、現在は2020年、それらの年から半世紀が過ぎていて、ぼくは健在です。写真を撮って、小説を書いて、小文を書いて、ほぼ撮りっぱなし、書きっぱなし、推敲なんてしてなくて、いいままよ、撮りまくって、書きまくってやれば、いい、なんて思えるのは、無頼派の作家たちの行いとか西鶴の行いとか、結構、影響を受けていて、それらの人の真似してる、そんなふうに思っていて、初期、小説を書いたり写真を撮ったりしていた時には、そんなに簡単に人前にさらけだせることではありませんでした。小説は、ただいまアダルトサイトにて、男と女の姿を描いていますが、もうそろそろ終えようか、と思わないといけないのかなぁ、と考えています。


自分史-24-

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<Xへの手紙・私小説論>
ひとつの物語というのではなく、短編評論の集積集というところでしょうか、表題の文章もそのうちのひとつです。小林秀雄という明晰な書き手に興味をもったのは、文学史を勉強していた自分にとって、それは必要なアイテムであったと思います。左翼から転向した評論家、という話をどこかで読んでいて、「転向」というフレーズが気になっていました。鶴見俊輔さんひきいる転向研究の成果がけっこうぶ厚い二分冊の本になっていて、買って本棚に入れていたところです。転向したという小林秀雄さん、転向後の晩年には、日本文化の美に触れてこられたと思うのですが、ぼくもいい年になってきて、その変容がわかる気がするのです。

様々なる意匠、昭和四年、Xへの手紙、昭和七年、私小説論、昭和十年、いずれも昭和のはじめのころの分析で、ぼくが読んだのが昭和45年ごろです。評論されてから40年ほどが過ぎて、テキストとして使わせてもらったところです。現在2020年で40年前といえば1980年、昭和55年あたりでしょうか。時代差と時間差で、ぼく個人の内面の推移をはかっているところです。1980年ごろといえばポストモダン概念がひろがりはじめた頃でしょうか。美術のレベルでポストモダンでしたが文学においてもポストモダンでしょう。いま小林秀雄さんの文献をそのまま適用するのではないけれど、参考文献としては役に立つと思います。
(続く)


自分史-23-

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<風俗小説論>
明治の末期の日本文学について、中村光夫さんは小栗風葉の「青春」を忘れられた流行小説といい、同時期、明治38年に書かれた漱石の「猫」を引き合いに出し、二年後の明治40年には花袋の「布団」、藤村の「破戒」か世に出たと記しています。風俗小説論の一節、近代リアリズムの発生という項目で、風葉、藤村、花袋の三人の小説を比較検討しているのです。近代リアリズムの流れで、藤村の破戒の社会性と対比して花袋の私小説につながる作風を論じたと思っています。この「風俗小説論」がぼくに与えた影響は、といえば日本近代文学の区分けを知り、おおむねの文学史の概略をつかませてもらえた事だと思っています。

この文庫本、初版発行は1958年昭和33年ですが、ぼくの手元にあるのは1970年昭和45年発行の14版です。そのころに読んでいる、なんとなく1960年代の中ごろに読んでいたように思えますが、読書会をはじめたテキストで読んだのかも知れません。大きく影響を受けた本です。といってもすでに半世紀前、50年も前に読んでいた本で、現在、どこまで有効なのかはわかりませんが、ぼくの区分、区分けでは、いまも鮮明に思える分析です。文学の、小説の、作者になろうとして、なりきれなくて、いまも続行しながらフィクション活動をしているところですが、ぼくの文学論を知識しはじめた最初だったところです。
(続く)

自分史-22-

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<好色一代男>
芭蕉さんと対比するわけじゃないけれど、井原西鶴ってゆう御方は、さまざまにぼくの文学観を導いてもらった一方の御方だと思っています。ぼくのなかにも、硬派と軟派が混在していて、表向きは還暦のあたりまで、ずっと硬派で通してきた、と思っています。でも、時代の流れのなかで、生きることの複雑さというか、テーマの多様さというか、性領域を扱わないと世界の全体が見えないようにも思えてきたわけです。それとは別に、井原西鶴の文学のやり方というか、矢数俳諧っていうように、一晩に大変な数の川柳を詠んだとか、好色一代男は好色ものだけど、源氏物語を意識して書いてるよなぁ、とかの話を聞いていて、とてもやない西鶴の文章を読みこなすほどには知能がないから、表面を眺めているだけです。

文学史を学びだした1960年代、文学といえば近代文学であり現代文学でした。近松や西鶴や芭蕉といった文学は近世文学というんですね。漱石のことを語った評論を読んでいるとき、吾輩から坊ちゃんに至るあたりは江戸趣味の世界だったが、近代文学、漱石の場合だと英文学の影響で近代文学の文脈を得る、という文学の構造をつくってきた作家。江戸戯作文学、あるいは明治期の風俗小説は、近代文学よりも劣るというような価値観でとらえていた自分があったのは事実です。ぼくの立場は、私小説否定派で、戦後文学の全体小説の枠組みこそ文学、フィクションだ、なんて思っていて、それを背景とした文章、フィクションをめざしていた、と言えます。実際には、モノにならなかった自分がいるわけで、あんまり大きなことは言えない立場ですけど。
(続く)


自分史-21-

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<芭蕉文集>
岩波の日本古典文学体系で持っているのはこの本一冊だけです。大学生になって、文学を勉強する意欲に満ちていて、近代文学しか興味がなかったし、明治期から昭和40年代までの、近現代文学を読んでいたんですが、やっぱり古典も読まなくっちゃ、なんて思って、この松尾芭蕉の文学をと思ったのでした。侘び寂びというイメージの世界ですが、静謐なイメージで、茶道のイメージで、たぶんこれが日本精神の底流であろうかみたいな意識がありました。この意識が何処から生じてきたかは、明確にはわからないですが、高校のときの先生、万葉集の伊藤先生、源氏物語の小原先生、近代文学史の池垣先生、この先生からの話しで、なんとなく色艶ではなくて詫び寂びイメージを抱いてしまったのだったと思います。

京都の嵯峨に落柿舎があって、そこは俳人向井去来の庵で、その当時、何度も落柿舎を訪ね、去来の墓を見て、俳句に親しもうと意識したけれど、そうはなりませんでした。美意識ということでいえば、ぼくの意識は枯山水の庭の美、茶道の洗練された美、なんでしょうか武士の美意識でしょうか日本刀の静謐な美、美徳、くぐもった押さえつけるような抑圧的な意識としての美。俳人の意識はどんなもんだったかわかりませんが、10代の自分には、京都に生まれて京都に育った自分イメージとしての美があったと思えます。鴨長明や兼好法師を少し読み、俳句を読み、現代詩を書いた美意識です。自分の著作で出版ということであれば、たわいない話ですが「そなちね」詩集を、自作自演で発行したのが高校二年生の秋でした。

いつのころからか美の系譜を自分なりに立ててきます。表現の根底は「美」の意識だと考えています、近年では自分が生まれ育った環境にあった美意識とは、みたいな発想で、美の表現物をとらえだしていて、紫式部が描く源氏物語の男と女、井原西鶴の好色一代男の男と女、西陣織が織りなす美意識、思ってみると色艶、江戸時代には浮世絵、美人画、春画、それに人間の欲求としての性関係に至ります。年老いて身体老化してくるに反比例して美の精緻は、性の興奮するイメージとしてとらえています。日本の美意識の流れには、侘び寂びだけではなくて、色艶がそれ以上の領域を覆っているように思えているところです。



自分史-20-

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<ボードレール全集・悪の華>
ここでボードレール論を書くつもりはなくて、書けるほどの知識も持ち合わせていないけれど、フランスの詩人ボードレールの悪の華という詩集のタイトルに魅せられて、拾い読みしていました。1960年代の終わりころでしたけど、外国文学ではフランス、仏文って表記していますね、この仏文、サルトルとかカミュとかの当時の現代作家、フローベルの小説とか、わけわからんままに自然主義とか実存主義とか、論じあって読んだ記憶があります。遅れてきた青年、大江さんが言っていたのか、自分も三年遅れで大学生になって、世間を知らない遅れてきた青年だと思っていました。

文学の有効性っていうか、飢えたる者のまえに文学は有効か、なんて問題を突きつけられていたと思うんですが、食べることに飢える人間に、そりゃ食うことが先でしょ、という結論には、心情的に落ち着かなかった。ぼくは運動家だとは思っていなくて、作家をしたいと思っていて、当時には運動家であることと作家であることは結びついていませんでした。それから10年後、写真を撮ってドキュメントを思考したときに、そのことが繋がったと思っています。10年後というと釜ヶ崎で写真を撮っていて、季刊釜ヶ崎という雑誌を編集していた時です。のちに運動家のことをアクティビストと云うと知ったのですが、これは硬派な部分の、ぼくの流れだと思えます。
(続く)