自分史(2)-7-

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吹奏楽との出会いを書いておこうと思います。中学の入学式の日、1959年ですが、吹奏楽部の演奏があり、魅されてしまいました。小学生のときから学芸会とかでは、器楽合奏のほぼ主役をさせてもらっていたから、音楽の才能があったんだと思います。吹奏楽演奏に魅され、音楽の最初の授業の時に、吹奏楽部の募集があり、手をあげました。詳細は記憶にありませんが、クラリネットをあてがわれます。先輩に梅田さん、菅さん、同年生では女子が二人だったか三人だったか、パート練習は女子たちとするようになります。いまや吹奏楽部といえば女子が大半の音楽クラブですが、その当時は、男子は金管楽器、女子は木管楽器、というふうに分かれていました。三年間を吹奏楽に明け暮れた感じで、三年になって、パレードの指揮をするようになります。単独だけではなく、市北部中学校合同の市中パレードの先頭で、指揮棒を振って、ホイッスルで合図、そんな役割でした。

中学から高校へ、山城高校へいく予定が嵯峨野高校で、そこは以前女学校だったというのでお茶室はありましたが、吹奏楽部はなく、野球部も強くはなく、田舎の学校のように思えたのですが、一年のときのクラブ活動では、新聞部にはいり、JRCにも所属しましたが、吹奏楽部をつくる機運が起こってきて、創部の中心になっていったのです。大学への進学校でしたからまわりは受験勉強ムードでいっぱいのなか、吹奏楽部をつくり、若かった宇野先生を顧問にして、部活動をはじめたのです。創部早々、さっそく夏の野球部、予選で西京極球場での応援演奏をおこないました。球場にむけて見下ろすのではなくて、球場を背にして見上げる光景は、指揮者の醍醐味というところでしょうか。女子の足元深くが目にはいります。どぎまぎしながら指揮したのを思い出します。そうして秋の文化祭を迎えるにあたって、中学からの応援を含めた混成部隊で演奏をやりました。ファンファーレは、東京オリンピックの楽譜が手に入っていたので、それをやりました。

高校二年生の春から秋まで、吹奏楽部を作りこんでいくのに必死だった記憶がよみがえります。なにもないところから作り上げることをする、最初のプロジェクトでした。人生において、何度か未定のモノを形にしていくプロジェクトを組んでいくことになりますが、これが最初です。この吹奏楽部は、その後、現在まで続いていて、OB会がつくられていて、ぼくは創部者ということで、つまり後のメンバーは後輩となるところで大事にしてもらっていて、感謝です。数年前に創部50周年の記念演奏会が開催され、オープニング、校歌演奏の指揮をとらせていただき、50年ぶりに指揮台に立ちました。すごい迫力、指揮台のところに集まる音は、ステージではなくて正面からの音だから、独特の迫力でした。

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自分史(2)-6-

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文化祭にはクラス単位の合唱コンクールがあるのですが、ぼくは指揮者をつとめて、三年間、毎回続けて優勝しました。記念写真がありますが、指揮者だからでしょうか、最前列に腰を落して座っているのです。今、見てみると、晴れがましいです。クラスの連中引き連れて練習したかいがあって、優勝の栄誉に輝いた、というわけです。たまたま優勝したわけで、ぼく自身、それほど感動した記憶はなくて、あっ、そう、程度だったように思います。吹奏楽のステージ、軽音楽のステージ、クラス対抗の合唱コンクール、音楽の場面はぼくが取り仕切ったということになりました。

大学進学から就職に変更したのは、三年生の秋の終わりごろだったと思います。京大なんてムリムリムリ、受験勉強なんてしてないんだから、受かるわけないわなぁ、と思っていて、決断して就職することにして、進路部の部屋へ行って、先生に就職する、と話しました。ほぼ即決、十字屋楽器店が人ほしがっている、ピアノの調律師の仕事がある、受けてみるか、という話しで、三条新京極の本店へ面接に行きました。技術部の部長さんは森さん、年配の方でした。電気できるか、と問われたので、ラジオとか作った経験があると話して、それならエレクトーンのことやってみないか、といわれて、ピアノ調律ではなくてエレクトーン技術をやることになったのです。

卒業を迎えていた日々、出席日数が足らないから、補講するので朝から来なさいといわれて、補講をうけて、卒業できることになりました。生徒指導の金加先生がぽつり、入試の成績はトップクラスだったのに、どうしたんかなぁ、みたいなことを言われたのを覚えています。卒業式の日は、もう、卒倒しそうなほど、むなしさの気持ち、ばかりだった記憶があります。学校近くのパンを売ってる店は行きつけの店で、最後のパンを買った記憶がよみがえります。別れは辛い、大半は大学進学なので希望に満ちていたと思うのでしたが、ぼくは、就職してしまった、との思いなのでした。

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自分史(2)-5-

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ガリ版刷りのための原紙つくりにヤスリと鉄筆を使うんですが、正式には孔版というのでしょうか、ぼくが小学生の頃、母親がこの技術を習いにいっていて、ぼくが高校性のころには、もう道具一式を使っていなくて、ぼくが使うことになりました。小説で足摺岬というのがありますが、そのなかでガリ切りする光景が出てきます。なにか暗いイメージの記憶がありますが、文学すること自体が暗いイメージを伴っています。もちろんぼくのイメージにすぎなくて、ですが、自分の暗闇に光をあてて表に出してあげる、これが文学行為の根底かとも思っていたのです。行為としてのガリ切りは、奈落に堕ちそうな気持を下支えしてくれる作業としてあったように思えます。文章を書く、写真を作る、これらの行為としての作業は、下降するこころを底から支えてくれる器なのだと思えます。

原紙にはマス目が入っていて3㎜だったか5㎜だったか、そのマス目に文字を角ばらせて書くと見栄え良い、ということを教わって、そのことができるように練習しました。詩集を作ることが目的で、詩そのものを書きださないといけません。これはメモのような感じでノートに書いた記憶があります。当時はノートにびっしり日記を書いていたその延長に詩があった気がします。なに紙っていうのか、千本の文具店へいって紙の見本から種類と色を選んで、裁断してくれるというので、裁断してもらって、その紙を謄写版においてローラーで刷り込んでいくのでした。印刷は生徒会室にあったから、そこを使わせて(黙って)もらいます。冬の夕方、きもちは虚しい、泣きそうな心で、ローラーで刷った記憶がよみがえります。17歳の出来事です。

出来上がった詩集は、一部五円でクラスの女生徒に売りつけていました。女生徒はキャッキャいって手にして、読んでくれて、面はゆい気持ちになりましたが、なにかしらの快感でした。たわいない告白の交じった短文ですが、文章が書けることを意識したことはありませんでしたが、当時は、小説を読むというより詩を読むことのほうが多かったです。アポリネール、リルケ、バレリーとか、朔太郎、光太郎、藤村とか、そのうち堀辰雄にいきついて「風立ちぬ」のフアンとなり、全集を手に入れるようになります。全集といえば太宰治全集が筑摩書房から出ますが、もうそのときは大学受験の浪人時代だったかなぁ、と記憶をたぐっています。音楽と文学のはざまを振り子のようにゆらゆら揺らせていた気がします。

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自分史(2)-4-

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自分を取り巻く外観は、年月とともに変化してきますが、内面の気持ちってゆうのはグルグルぐるぐる、同じところをかざぐるまみたいにまわっているような気がしています。言葉をもっているから、言葉を紡いで書き残しますが、子供のころからの気分が、いまもって同じような質であるように思えるのです。ただ年齢すぎ、経験が豊富になって、処理のしかたがわかってきて、理知の領域で自分をなだめようとして、表向き冷静であるようにふるまうのだとも思えます。小学生の高学年あたりから自我が目覚めてきて、思春期になるのか、気持ちを表現できるようになる。哀しいとか淋しいとか嬉しいとか、無意識ではなくて、自覚的にそう思えるようになる、ぼくの場合はそうでした。

気持ちが、奈落の底に落ちていくような気分になるときがあります。氷の割れ目、クレバスに落ち込んでしまうような気分、龍之介のクモの糸にしがみついているのに、プッツリと切れてしまって、転落していく気分、なんとも支えられる底がない、底なし沼に沈んでいくような、そんなまったりじゃなくて、キリキリに研ぎ澄まされた感覚なわけです。高校のころになると精神病院、いまなら心療内科とかいうんでしょうか、とっても意識しだして、診察受けたらぼくは即入院なんて言われるんじゃないか、とまじめに思っていた気がします。かなり年を取ってから境界例という症例があると知りましたが、それに近い感覚を持ち続けているわけです。

あるとき、その感覚がよみがえるんです。躁と鬱の波が、波形が、時とともに流れていて、そのつど波形の波間に漂っているんです。なにかの拍子に鬱のクレバスが開くんです。正常と異常、ノーマルとアブノーマル、その境界線があるとすれば、この境界線の異常のほうにはまってしまうイメージです。恋して振られた、人格を否定された、困難に立ち向かえなくなった、そういうとき、心の弱さといえるそのところへ、落ち込んでしまうんですね。精神異常っていうけれど、その境目を越えてしまって表向きそれとわかる場合と、それがわからない場合とがある。自己治癒されるから、ふたたび年月とともに正常世界に戻っている。そんなことの繰り返しのような気がします。

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自分史(2)-3-

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文化祭のステージでブラスバンド演奏をしたメンバーの記念写真があります。1963年10月とあって、先に触れた吹奏楽部創立からの初めての文化祭。軍艦マーチを演奏して、顧問の先生と激論した記憶がありますが、当時のぼくには勇ましい軍艦マーチの意味合いがわかっておりませんでした。文化祭ステージでのメンバーの半分は中学生の応援でした。合同ステージを組んだのは部長ぼくの判断で、カッコよさを求めたのと翌年に入学してくる中学生を巻き込んでおきたかったとの記憶があります。指揮者をしておりました。楽譜は読めました。指揮者が楽譜に基づいて音楽を創っていくという作業に立ち会わせてもらえました。でも、この日の直後、吹奏楽部から離れ、受験勉強に入るという立場になりました。

文芸部の人たちと知り合うのはこのときです。好きな人の話は一切できなくて、しなくて、心に秘めたまま、誰に告げることもなく、心に秘めたまま、文芸部の人たちと交流します。さすが文芸部、一年後輩になる女生徒が数人いて、その屈託ない明るさに引き込まれていきます。気にかかる女生徒もいて、お屋敷へみんなで遊びにいったり、スケートにいって抱いてしまったり、女子との淡いふれあいを体験します。心は凍てつき、清凉寺横の嵯峨病院へ入院したら直るんやろか、と本心、真剣に思っていました。嵯峨病院は精神科の病棟で、友だちの家が経営者ということを知って、なにかしら近くに思っていた記憶があります。

大学へ行くといえば、志望する大学は国立大学しか想像できなくて、先輩たちも合格されていたから、ぼくも其処しかないとの思いで、受験勉強しなあかん、と思っていたけれど、中途半端に不良をし、暴走族して、バイトと喫茶店に入り浸り、いつも心は闇、心は病んで、悶々としていた記憶です。それらの日々から半世紀以上が経って、当時の友と昔懐かしの話をすることがあります。文芸部だった彼と、名古曽のはなしをふりかえり、そこに女生徒がいて、それから、その女生徒は、どうしたのだろうか、化野の屋敷の女生徒は、その後看護師になったと聞いたというと、どっかの社長の屋敷に住んでたんだよなぁ、とか昔懐かしいけれど、ぼくの気になる人の消息は全く分かりません。

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自分史(2)-2-

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最近、気持ちが文学系に傾いているので、好き気儘に、自分に都合いいようにアレンジして、自分のことを語る、そういうことにします。それは高校二年生のときですから、1963年、昭和38年ということになります、17歳です。詩集を出します。「そなちね」と題したガリ版刷り8ページの詩集です。突然、見よう見まねで作った記憶がよみがえります。気持ち的には、とっても惨めな感傷的な、青春時代特有の、これは冬ですから、ピンと張りつめた感覚でした。その感覚は、その後も消えることなく、断続的に続いていました。その後には今で云う不登校になり、引きこもりではないですが、昼夜の逆転があり、朝起きられなくて、夜眠れなくて、悶々と過ごす日々でした。

高校二年生になった春には、大学受験勉強をしはじめました。公立高校で大半が大学進学する学校でしたから、ぼくもそのつもりで参考書を買い込み、寝るのも削って問題集やらを解いていた記憶がよみがえってきます。一年の時に好きになった女子がいて、その子のことを忘れるためにも、受験勉強に没頭していた矢先でした。五月になっていたかと思います。吹奏楽部がないのでつくれないかという話が起きて、中学で経験していたぼくが進めることになりました。話をくれたのは梶谷くん、音楽部にいた友だちでした。もう受験勉強どころではなくて、臨時の生徒総会をひらいて、楽器を買う資金を月10円年120円を全員から集めるという話を通して、紆余曲折ありましたけど、中学で経験していた一年生を10名ほどあつめて、夏休みには没頭し、秋の文化祭には成功のステージで、あとを後輩に譲ったところでした。

高校二年生の秋には修学旅行で、およそ一週間の南九州行きがありました。この旅行には一年の時の彼女もいて、思い出したかのように、心が震えたのです。何度か顔をあわせて会話して、やっぱり忘れられなくて、というような話を彼女に告げたかどうかは定かではないのですが、ぼくの心が乱れて、いまなら精神治療になる落ち込みをしたのです。吹奏楽部の後には文芸部の人たちと知りあって、一緒に嵐山へ遊びに行ったりスケートリンクへ滑りにいったり、女子がいたから、それなりに癒された感じでした。文芸部の影響があったのかも知れません。鉄筆でガリ切りして謄写版で刷ってあわせて詩集「そなちね」を発刊したのが12月になった時でした。寒々とした風景を思い起こします。木造の教室のなかでできた詩集を一部5円で買ってもらっていた光景を思い浮かべられます。

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自分史(2)-1-

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自分史というジャンルがあるようで、これは自分が自分のことを書き残すことだと思えます。自我が目覚めて、自分を対象化できるというのは、人間に育まれてきた知能のひとつだと思うのですが、これは記憶に基づいていて、人間の内面に起こってくる記憶の断片がまとまってページをつくる、このページが自分史の1ページになると思うのです。ホームページを作っていると、1ページを構成する部品をページに配置してまとめていきます。この作業を一瞬のうちにしてホームページのページがなして、パソコンの画面に表記される。

なにか自分の内面の構造を見つめてみると、デジタルネットワークやデジタル作業の一つ一つが人間の内面構成と類似だと気づくのです。デジタルでページを対面化できるようになって、自分史というジャンルが一般人の間にも広まってきたのではないでしょうか。かってありいまもある日記という記録の方法。記憶装置として紙に書かれて残されて、まとめれば本になるのですが、このことを一般人が為すには、それなりの能力がいるように思います。でも、自分のことを残したいという人間の願望を満たすために、胸像や肖像画から肖像写真というように外見が残されてきました。

今や、現代、この外面を残すというだけではなくて、内面を残すということが、できるようにツールが開発され、そのことができる認識もひろまって、自分史を残すというのがブームとなってきているのではないでしょうか。お金があれば、数百万でしようか、自分史を出版社が出版してくれます。ゴーストライターをたてて、自分のことを聞き記録して文字起こししてくれて、価値に根ざした出版社の出版物として、自費出版ということですが、残すことができる現代です。自分のことに関心目覚めて、それを残そう、そのための無料で作れるツールがあって、まさにここはそういう場です。

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日々にっき200617

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梅雨とはいえ今日の空、初夏の爽やかな青空です。
さきに自分史の記事でつかった写真を見ながら、手元の本の背表紙を見ています。
一方で久しぶりにノーマルな小説を書こうとして、行き詰っています。
いかんなぁ、構想力がない、想像力といっても、イメージだけで中身がない。
エピソードを連ねていくんだけど、そのエピソードがわいてこない。
ちょっとイラつくけど、自然体になるまで、待つしかないかなぁ、とも。

今日載せてる写真は、半夏生って名前の花と葉だと聞いていて、撮ったものです。
写真論も行き詰っていて、どう展開したらいいのか、迷っているところです。
巷の工作物を撮って、変換して、表現論と名付けたシリーズを展開しています。
載せるのは直近に撮った写真を使っていますが、被写体に困ってしまいます。
マンションとか、街路とか、生活感がある被写体で生活感がないように撮る。
ほんと、自分のことは自分ではなかなかわからない、価値軸がわからないですね。


フォトクラブ京都6月例会のお知らせ

<ご案内>
フォトクラブ京都は現代表現研究所が主催する研究会的集まりの場です。
主に写真のことについて語り合います。
会費は不要、会場はアマノコーヒーロースターズさんのテーブルです。
月に一回、第三土曜日の午後2時~5時に集まっています。

<フォトクラブ京都の2020年6月例会ご案内です>

2020年6月例会は、6月20日(土)午後2時~5時です。

写真撮影の技術や制作技法の研究だけでなく、現代の潮流を話題にしています。
参加される個人が、自立していけるクラブを目指しています。
ただいま会員さんを募集しています。

詳しいことは、お問合せください。

開塾場所は<アマノコーヒーロースターズ>です。
〒603-8203 京都市北区紫竹東高縄町23-2ルピナス1F

<問い合わせ先>
☆主宰者中川繁夫へお問い合わせください。
facebook:https://www.facebook.com/profile.php?id=100047061093297

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日々にっき200613

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会話・対話の方法も、コロナ以後、ネットワークの中でおこなう試みがなされています。
ZOOMとかSkypeとか、テレビ電話という言い方は古いと思うけど、グループで遠隔でおこなう。
もちろん、否定するものでは全くなくて、おおいに推奨していけばいいと思っています。
通信技術の進歩だし、対面でないといけない、ということは全くなくて、バーチャルな時代です。
ぼく自身のことでいえば、あまりその通信方法の中に漬かりたくないなぁ、との思いです。
リアルに会って、会話・対話をする、というのが、基本だと思っているからです。

リアルとバーチャルの世界があると思うんですが、いまや仮想現実、バーチャルが優位のような。
リアルとバーチャルのせめぎあいなんて思っていなくて、二つの世界の融合の時代になっている。
ますます融合していって、個人の存在そのものの意味が変わってくるようにも思えます。
食って身体を維持する、結合して子孫を残す、リアルなところでは、このことが必要です。
バーチャルで、仮想空間で、セックス気分は味わえても、腹を満たすわけにはいきません。
もちろん食も摂取の方法が変わるかも知れないけれど、食の摂取を無くすわけにはいかない。

あらためて、リアルとバーチャルの世界を、どのように融合させて、境界面を意識するか。
かってバーチャルな世界は、今ほどにリアルな目に見えるようには現れていませんでした。
20年ほど前のたまごっちあたりから、個人がバーチャルな世界にはまってしまうようになった。
それからゲームがあり、いまやSNSの世界も、バーチャルの世界そのものになってきています。
ぼくなんかは人生の七割くらいはリアルな世界に生きていて、あとが混在の世界です。
年代が下がるとともに、バーチャルな世界の割合が多くなっているのではないかと思います。

日々にっき200611

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自分史で、かって読んだ本を選んで、それにまつわる記憶を辿って自分を検証してみました。
硬い本が並んだ感じで、自分の硬派な過去を振り返ったところです。
でも、それらから半世紀がたって、言語の環境も大きく変わっていて、いまや軟派です。
軟派ってゆうと男ならガールハント、女ならボーイハント、女漁り、男漁り、です。
昔も今も、男女のことは、おおきな関心事です。

週刊誌に芸能人の不倫記事が載り、テレビの芸能ニュースで、こってりと話題にします。
自分としては、そのことを扱うメディアが、けしからん、なんて全く思っていません。
ただ、もう少し政治や経済のゴシップばかりでない、本質を解くような記事を求む、です。
自分の持つ時間の大半も、男と女のことであり、自分は男だから、女のことを思う、です。
ネットの中でも、関心事に向けて、奥深くへ潜入していって、欲望を満たします。

フランス文庫とか幻冬舎アウトロー文庫とか、河出書房新社のシリーズとか、読みました。
かなり精力的に読んで、日本語の状況を把握して文章、フィクションを組み立てています。
ネットの内部で、膨大な量のセックス動画や静止画があるわけで、本の時代じゃない。
画像も映像も、どんどん進化して明確になって、かってあった映画の比にもならない。
そういう時代に、なにができるか、そういう話しができる場がほしいと思っています。


自分史-27-

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<共同幻想論>
吉本隆明さんの文章で「擬制の終焉」があって、これを読んだのがきっかけで、けっこうのめり込んでいったと思っています。共同幻想論、この単行本が発行された時期に学生していたから、この本をとりあげましたけど、「言語にとって美とはなにか」も自分にとっては重要だと思っています。でも、同時代というより、少し前の時代に書かれた文章だから、ここにあげたのは共同幻想論のほうです。決して易しい本ではなくて、解読するのに、ほんとにざっと概略イメージで、とらえているだけです。

写真というメディアにかかわる以前、1965年頃から1975年頃は、年齢的には10代の終わりから20代の終わりころまでです。文学に傾斜し、小説を書こうとしていて、悶々とするわけですが、そのなかで国語学というか言語学というか、そのジャンルを理解しようとしていたと思うんです。具体的に学ぶ場を持っていたわけではなかったから、興味の上滑りだけで、学問としてのなかには入れないまま、自分なりの解釈で、終わっていったと思っています。現在、ぼくが学校にこだわるのは、そういう視点で教えてもらえなかったからの体験からです。

吉本隆明さんの共同幻想論に先立つ「言語にとって美とはなにか」は、自分流にうわべだけ読んだ感で、問題提起をいただいたところです。「今、写真行為とはなにか」なんてタイトルで、問題を提起して限定百部の本を出したのが1980年でしたが、意識の背景には一連、吉本隆明さんの思想がありました。雑多に本を読み漁った、というほどに読書量は多くなくて、むしろ行動派で、モノを書いたりする方に時間をかけていたから、現在、人前でいうには余りにも貧弱な経験値でしかなかったと思っています。ひとまずここでこの自分史シリーズを終えます。

自分史-26-

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<民間伝承論>
柳田国男さんが書かれた民間伝承論が一冊の本となっていて、この本の奥付をみると1980年発行になっています。それよりも以前に「遠野物語」を学生だった頃にざっと読んでいて、それから10年後あたりに写真記録の方法を考えていたとき、この民間伝承論の存在を知りました。採取の方法というか記録の集め方というか、1980年当時では、ぼくが写真を撮る根拠を、探し出したいと思っていたところでした。そこの住民が、そこの記録をなすことが、一番の記録だ、という話だと教えられたと思います。深読みしたわけでもなく、柳田国男さんんを研究した輩でもないから、表面的なことしか論じられないのですが。

まあ、知っているというだけで、深い処は知らなくて、もう半世紀も前に読んだ本の内容を、明確に覚えているかといえば、決して明確には覚えていなくて、でも、自分を語る場合に、自分の外にあるモノを引き合いに出して、自分を描いていく。こんな方法をとっているわけです。ぼくは研究家ではなくて、自分が触れてきたことの、それを材料として語ることで、自分のなかに自分をとらえるという作業をしているのです。柳田国男さんが記録、採取をおこなって定着させる方法として、このばあいは民俗学の成果として採取記録を残す、その方法などを考えられた結果として民間伝承論にまとまった。これをぼくが読んだ、引用させていただいた、ということでしょうか。

自分っていったい何者なんだろう、この問いが、世間ではいつごろから意識しだされたテーマなのだろうか。ぼく自身でいうと、この問題は、問題として考えるようになるのは1970年前後、二十歳を越えたあたりだったかと思います。それ以来、ことあるごとに、自分とは何者なのか、と問うてきたと思うんです。エッチなことする、仕事の中で管理者の立場に立つ、公私いろいろあるそれの総合としての自分。いま、ここで、こんなことを書いている、思考していることじたい、何をしてるんだろうと思っているわけで、ぐるぐる回る、風車みたいな、いや螺旋階段を上ったり下りたりみたいなことで、生き様を晒しているわけです。わけわからん、といいたいところですね。

自分史-25-

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<堕落論>
坂口安吾というひとは、無頼派なんて言われていた作家のひとりですね。太宰治、織田作之助、坂口安吾、第二次大戦敗戦後の世相を反映しているとでもいうのでしょうか。やぶれかぶれ、デカダン、酒、女、遊んで遊んで、みたいなイメージでぼくをとらえてきます。二十歳を過ぎたばかりの大人というよりも、まだ青臭い遅れて行った青年だったころです。もう、全共闘の運動が終わっていって、世の中、静かになってきたあたりで、読書会しようか、なんて運動にやぶれ、生き残った数人があつまって、アパートの一室で、ちまちま、文学のことを語ろうとして語れなかった記憶がよみがえります。

坂口安吾、1906年、明治39年に生まれる、とあります。太宰治、織田作之助、文章書きの先輩って感じで、すごい人、というより先輩って感じで、でも大江さんや高橋さんとか開高さんほどには身近ではなくて、身近だけれど遠い人、みたいな距離感で、ぼくの前に生きていた人たちを眺めていては、ぼくも作家になりたい、なろう、と思っていたものでした。でも、人前で、そういうことを言えたのは少しだけで、もう結婚して子供が生まれてきたりして、でも、まだ、内心は作家になりたい、と思っていたけれど、もういいいや、と思ったときには、むなしかったですね。そんなころ一眼レフカメラを買った。

21世紀、現在は2020年、それらの年から半世紀が過ぎていて、ぼくは健在です。写真を撮って、小説を書いて、小文を書いて、ほぼ撮りっぱなし、書きっぱなし、推敲なんてしてなくて、いいままよ、撮りまくって、書きまくってやれば、いい、なんて思えるのは、無頼派の作家たちの行いとか西鶴の行いとか、結構、影響を受けていて、それらの人の真似してる、そんなふうに思っていて、初期、小説を書いたり写真を撮ったりしていた時には、そんなに簡単に人前にさらけだせることではありませんでした。小説は、ただいまアダルトサイトにて、男と女の姿を描いていますが、もうそろそろ終えようか、と思わないといけないのかなぁ、と考えています。


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<Xへの手紙・私小説論>
ひとつの物語というのではなく、短編評論の集積集というところでしょうか、表題の文章もそのうちのひとつです。小林秀雄という明晰な書き手に興味をもったのは、文学史を勉強していた自分にとって、それは必要なアイテムであったと思います。左翼から転向した評論家、という話をどこかで読んでいて、「転向」というフレーズが気になっていました。鶴見俊輔さんひきいる転向研究の成果がけっこうぶ厚い二分冊の本になっていて、買って本棚に入れていたところです。転向したという小林秀雄さん、転向後の晩年には、日本文化の美に触れてこられたと思うのですが、ぼくもいい年になってきて、その変容がわかる気がするのです。

様々なる意匠、昭和四年、Xへの手紙、昭和七年、私小説論、昭和十年、いずれも昭和のはじめのころの分析で、ぼくが読んだのが昭和45年ごろです。評論されてから40年ほどが過ぎて、テキストとして使わせてもらったところです。現在2020年で40年前といえば1980年、昭和55年あたりでしょうか。時代差と時間差で、ぼく個人の内面の推移をはかっているところです。1980年ごろといえばポストモダン概念がひろがりはじめた頃でしょうか。美術のレベルでポストモダンでしたが文学においてもポストモダンでしょう。いま小林秀雄さんの文献をそのまま適用するのではないけれど、参考文献としては役に立つと思います。
(続く)


自分史-23-

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<風俗小説論>
明治の末期の日本文学について、中村光夫さんは小栗風葉の「青春」を忘れられた流行小説といい、同時期、明治38年に書かれた漱石の「猫」を引き合いに出し、二年後の明治40年には花袋の「布団」、藤村の「破戒」か世に出たと記しています。風俗小説論の一節、近代リアリズムの発生という項目で、風葉、藤村、花袋の三人の小説を比較検討しているのです。近代リアリズムの流れで、藤村の破戒の社会性と対比して花袋の私小説につながる作風を論じたと思っています。この「風俗小説論」がぼくに与えた影響は、といえば日本近代文学の区分けを知り、おおむねの文学史の概略をつかませてもらえた事だと思っています。

この文庫本、初版発行は1958年昭和33年ですが、ぼくの手元にあるのは1970年昭和45年発行の14版です。そのころに読んでいる、なんとなく1960年代の中ごろに読んでいたように思えますが、読書会をはじめたテキストで読んだのかも知れません。大きく影響を受けた本です。といってもすでに半世紀前、50年も前に読んでいた本で、現在、どこまで有効なのかはわかりませんが、ぼくの区分、区分けでは、いまも鮮明に思える分析です。文学の、小説の、作者になろうとして、なりきれなくて、いまも続行しながらフィクション活動をしているところですが、ぼくの文学論を知識しはじめた最初だったところです。
(続く)