自分史(2)-7-

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吹奏楽との出会いを書いておこうと思います。中学の入学式の日、1959年ですが、吹奏楽部の演奏があり、魅されてしまいました。小学生のときから学芸会とかでは、器楽合奏のほぼ主役をさせてもらっていたから、音楽の才能があったんだと思います。吹奏楽演奏に魅され、音楽の最初の授業の時に、吹奏楽部の募集があり、手をあげました。詳細は記憶にありませんが、クラリネットをあてがわれます。先輩に梅田さん、菅さん、同年生では女子が二人だったか三人だったか、パート練習は女子たちとするようになります。いまや吹奏楽部といえば女子が大半の音楽クラブですが、その当時は、男子は金管楽器、女子は木管楽器、というふうに分かれていました。三年間を吹奏楽に明け暮れた感じで、三年になって、パレードの指揮をするようになります。単独だけではなく、市北部中学校合同の市中パレードの先頭で、指揮棒を振って、ホイッスルで合図、そんな役割でした。

中学から高校へ、山城高校へいく予定が嵯峨野高校で、そこは以前女学校だったというのでお茶室はありましたが、吹奏楽部はなく、野球部も強くはなく、田舎の学校のように思えたのですが、一年のときのクラブ活動では、新聞部にはいり、JRCにも所属しましたが、吹奏楽部をつくる機運が起こってきて、創部の中心になっていったのです。大学への進学校でしたからまわりは受験勉強ムードでいっぱいのなか、吹奏楽部をつくり、若かった宇野先生を顧問にして、部活動をはじめたのです。創部早々、さっそく夏の野球部、予選で西京極球場での応援演奏をおこないました。球場にむけて見下ろすのではなくて、球場を背にして見上げる光景は、指揮者の醍醐味というところでしょうか。女子の足元深くが目にはいります。どぎまぎしながら指揮したのを思い出します。そうして秋の文化祭を迎えるにあたって、中学からの応援を含めた混成部隊で演奏をやりました。ファンファーレは、東京オリンピックの楽譜が手に入っていたので、それをやりました。

高校二年生の春から秋まで、吹奏楽部を作りこんでいくのに必死だった記憶がよみがえります。なにもないところから作り上げることをする、最初のプロジェクトでした。人生において、何度か未定のモノを形にしていくプロジェクトを組んでいくことになりますが、これが最初です。この吹奏楽部は、その後、現在まで続いていて、OB会がつくられていて、ぼくは創部者ということで、つまり後のメンバーは後輩となるところで大事にしてもらっていて、感謝です。数年前に創部50周年の記念演奏会が開催され、オープニング、校歌演奏の指揮をとらせていただき、50年ぶりに指揮台に立ちました。すごい迫力、指揮台のところに集まる音は、ステージではなくて正面からの音だから、独特の迫力でした。

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