自分史-1-

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<映像情報のころ>
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1980年8月、映像情報というフリーペーパーを発刊しだします。使ったイメージ(写真)は内灘の風景。1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本独立となりますが、この年、石川県の内灘海岸に米軍の砲弾試射場が建設され、反対運動が起こったという歴史があります。映像情報の創刊号に、その弾薬庫の跡を撮った写真を使っています。撮影は1975年か76年じゃなかったかと記憶しています。夏に家族で海水浴にいったところが内灘で、買ったばかりのニコマートで、モノクロフィルムで初めて風景を撮った写真がこれでした。

初めて内灘を訪れたのは1965年、私が高校を卒業した年です。訪れたいきさつは書きませんが、そこで見た風景が弾薬庫の跡でした。追って、それ以後の私の履歴についても、書き及んでいきたいと思いますが、いまは飛ばします。それらから10年の後に一眼レフカメラを買い、家族を撮っていましたが、このときはモノクロフィルムで撮った何本目かで、海水浴場内灘へ行った家族の写真のなかに、数コマ、弾薬庫跡を撮っています。もちろん、歴史上の記念碑的スポットとして認識しており、その後、1980年に映像情報を発刊する表紙に、その写真を使い、執筆した「私風景論」のなかにも数カットの写真を使用しています。

一枚の写真、その重みという言い方をすれば、私にとっては重い一枚の写真でした。現在2019年ですから、撮られてから45年ほどか起ち、人目に触れさせて39年という年月が過ぎています。やっぱり私はこだわっている気がしています。私風景論は1978年の夏に執筆した文章で、それを書き上げたのち、同年9月、大阪は西成区の釜ヶ崎取材に入ります。最近になって、私の探求グループに参加しはじめ、私を探求するとは、どういうことなのか、と自問しているところです。私の私風景を表出させる試みが、あらためて浮上してきているといえます。
(続く)

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